老いることと死ぬこと

雑文

 今日は病院に行ってきました。順天堂大学静岡病院という大きな総合病院です。

 病院に行くと老若男女さまざまな人を見かけます。

 赤ちゃん、子ども、ママ、パパ、青年、壮年、中年、おじさんおばさん、老人。

 たくさんの人達を見る中で、私はそれぞれの人生について想像したりしています。

 細かいところまでは考えないのですが、「まあこの人にも人生という物語があるのだろう」くらいには思います。

 昨日ふと、TikTokで流れてきた動画にこんなものがありました。

 それはインドに行った旅行者がインドの火葬場を見て、というものでした。

 実際に火葬場が映されているのではなく、「人が火葬されている様を見ている配信者」が映っていました。

 なので、勝手な想像になります。私はこんな風景を想像しました。

 インドのガンジス川の川辺りで、亡骸となった遺体をその場で燃やして、そのままガンジス川に流すなり埋葬するなりしているのではないかな、と。

 私は、人が燃える様を見たことがありません。きっとこの先もないでしょう。母方の祖父も、父方の祖父も祖母も亡くなっていますがちゃんと現代的な火葬をしているので、棺に入った死体が骨の灰となって出てきたことしか見ていません。

 だから人が焼かれる姿を想像するのは映画とかアニメとか漫画からのイメージからです。

『火垂るの墓』とか、あるいは「人が風葬される様を描いた絵巻」みたいなのを思い出します。

 何が言いたいのかと言うと、

 結局「人は死ぬ」ということです。

 今生きている人間は数百年後にはみんな死んでいます。今の世界の人口は何人でしたっけ? 3億? 6億? まあたくさんいます。

 つまり、大雑把に言って、この先100年の間に何億人の「死体」が出来上がるわけです。

 その、何億人分の一に「私」も含まれるのでしょう。

 さて、病院の話に戻ります。

 病院にいる人達は霊安室を除いてみな「生きています」。

 私は「老人」について考えていました。

 人間誰しも「死ななければ老人になる」。

 そんなことを思いました。

 なので、私も死ななければ老人になるのだなあと思いました。

 そして、老人は、つねに「死のカウントダウン」を受けながら毎日生きているのだなと、考えていました。

 私の祖母は90になるのですが、元気です。死の兆しなんてまったく見えません。

 でも、最近よく物忘れはするし、被害妄想が多い。

 あと何年生きられるのかは分かりませんが、私はいずれ祖母の死を見ることとなるのでしょう。

 現在一緒に暮らしているので、毎日祖母を見ています。

 祖母の年代と「昔ばなし」からすると、祖母は小学生のころに「戦争」を体験していて、戦後、「お見合い」で私の祖父と結婚し、三人の子を育てました。

 三人の子は、それぞれ結婚して(別れ)それぞれ子どもが出来ます。

 そのうちの一人が私です。

 祖母、祖父の孫は全部で8人います。

 そのうち、一番祖母と接しているのが、この私なのです。

 なんの因果でしょう。

 話が逸れました。

 つまり私はなんとなく「人生とは」みたいなことを考えているわけです。

 最近、歴史ファンタジー小説を書くにあたっていろいろ調べていると面白いことに気付かされました。

 たとえば私の祖母の家の寺は「大龍寺」というお寺なのですが、これは元をたどれば「空海」になります。

 空海、都が奈良から京都へと移っていく時代に唐へ生き密教を学び日本に持ち帰ってきた人。

 千年以上も前の話です。

 極端な話、私の祖父の葬式に関わったのはその大龍寺なのですが、私とはまったく関係のない「空海」が居なかったら大龍寺はありません。

 徳川家康が政治のために仏教を利用したという背景もなければ、こういったつながりも生まれませんし、もっと元をたどれば、お釈迦様が悟りを開かなければ、「仏教」もありませんでした。(もっと細かくいうとキリスト教と植民地支配の関係もある)

 だから、私とお釈迦様はつながっているのです。実は。

 それってなんかすごくないですか?(たぶん凄いのはお釈迦様)

 また話が逸れました。

 結局私は何を言いたいんだろう。

 深夜の二時に置きて、ぼんやり小説のことを考えていたらふとブログでも書こうと思って書いているのですがどうもまとまらない。

 なので、強引にまとめてしまうと、こうなります。

「人はいずれ死ぬ。死ななければ老人になる。以上」

 です。

 人生ってきっと「刹那」なんだろうなって、最近思います。

※あとから調べたら2024年の世界人口は82億人でした。
 桁違いだった。すみません。

 

 

 

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