しあわせは、手にするものではない、気づくものだ。と言ったのは私だ。
最近、しあわせを感じている。
結婚したわけではない。
子どもが生まれたわけでもない。
宝くじに当たったわけでも、就職先が見つかったわけでもない。
私はいまだ独身だし、恋人もいない。もちろん子どももいないし、宝くじは買ってすらいない。
新しい就職先も決まっていない。
だけど私はしあわせだ。
ありふれた日常に、しあわせを感じている。
今日、仕事をしながら、そんなことを思った。
私はいま、リラクゼーションサロンで働いている。
もみ屋さんだ。マッサージみたいなことをしている。
先日、私はこのブログで施術をしているときにリラックスしていると書いた。
今日もまた、リラックスしながら施術をしていた。
60分間、マッサージをし続けるというのは、人によっては長く感じるかもしれない。
でもやってみると、意外とあっという間である。
むしろ、60分だと物足りないくらいだ。
個人的には90分やると満足する。
何かをやるとき、その時間が短く感じるのは、楽しんでいる証拠である。
私は楽しみながら仕事をしている。
もしかしたらこれは天職なのではないかと思ったりする。
まだ、技術面では足りないところがあるし、ぶっつづけでやりたいとも思ってはいない。
だけど、自分のペースでやるぶんには、やっていて楽しい仕事である。
もちろん中には苦手なお客様もいる。
そういうのを除けば、おおむね楽しんでやれている。
さて、今日のテーマは「しあわせ」だ。
あなたはいま、しあわせですか?
しあわせな人は、存分にそのしあわせを味わったらいい。
しあわせではないと思っている人は、何故しあわせではないのかを考えてみるといい。
多分人それぞれ違うだろう。
中には身内に不幸があった人もいるだろう。
職を失って途方に暮れている人もいるのかもしれない。
友人も恋人もおらず、孤独を感じている人もいるのかもしれない。
返せない借金に苦しんでいる人もいるのかもしれない。
病気に苦しんでいる人もいるだろう。
人間関係がうまくいっていなかったり、夫婦関係が良好ではなかったり、家族間の諍いが絶えなかったり、あるいはいじめにあっていたり。
しあわせではない人は、きっといる。
だけど私はこう思う。
誰だって「しあわせになれる権利はある」と。
いまは苦しいのかもしれない。でも、いつまでも雨の日が続くわけではないのと同じように、いつまでも不幸でいることもない。
不幸続きだ、と訴える人もいる。
ときどき見るのだが、見るからに不幸を背負っているような人もいる。
肩を落として、視線も落として、みすぼらしい格好をして、無表情で、全体的に暗い。
そういう人も、いる。
何があったのかは知らない。
私には想像も及ばないような不幸を背負っているのかもしれない。
でも、私はこう思う。
本人の考え方次第で、それは変えられるのではないか、と。
「いいことなんて、何もない」という人がいるが、それは、何もないのではなくて、気づいていないだけだ。
そもそも、この世に生まれてきたことだけでもしあわせだと思う。
「私が望んで生まれてきたわけではない、親が勝手に作ったのだ」という人もいる。
親に捨てられたり、親からの愛情を受けられなかったりすると、生まれてきたことさえも、不幸なものとして捉えられてしまうことがある。
それは悲しいことだが、そういった運命は変えることができない。
変えることができるのは、自分の考え方だけだ。
せっかく生まれてきたのだから、しあわせになった方がいい。
しあわせになる権利は、誰にでもある。
その権利を、行使するためには、自分の考え方を改める必要がある。
私は何度も言っているが、「足ることを知る」ということが、大切なのではないかと思う。
「吾唯足知」である。
人間の欲望は限りがなくて、いつまでたっても満たされないものだ。
だが、足ることを知っている人は、どんな環境においても、足りているので、不満を持たない。
持っているのは希望だけだ。
そういう人は強い。
「いくらそんな崇高なことを言ったって、どうしようもない不幸はやってくる」
確かに、そうだ。
いまの私は、平和な世の中に生きているので、そんな甘いことを考えられるのかもしれない。
戦時中でもないし、飢饉が起こっているわけでもない。
病気が蔓延しているわけでもないし、すぐに殺される危険性があるわけでもない。
平和な世の中に生きているから、こんなことが言えるのだ。
私は、そのことは間違いではないと思う。
いまの立場が違っていたら、私は「足るを知れ」なんて言わないかもしれない。
そうだろう。
だが、私がいま立っている場所は「ここ」なのだから、ここから発信する言葉は、真実ではないのかもしれないが、嘘ではない。
「ああも言えるし、こうも言える」と、なんでも否定していては、何も言えない。
私は私の立場で発言する。
もし、私の与えられた運命が、人よりも恵まれているのなら、私はそのことに感謝する。
そして、自分の使命を全うしようと思う。
使命なのだ。
この国に生まれたこと、この時代に生まれたこと、この両親の間に生まれたこと、それらすべての運命を背負って、私は自分に与えられた使命を全うしようと思う。
なので、私はこうして私の言葉を全世界に発信しているのだ。(PVは平均5だけれど)。
冒頭に書いたことをもう一度言う。
しあわせは、手にするものではない、気づくものだ。
いま、しあわせを感じられない人は、まずは「気づくこと」からはじめてみるといい。
そうすると、世界は変わってみえるかもしれない。
私は、充分にしあわせなので、少しみんなにしあわせをおすそ分けしてみた。
それでも、「いや、私は不幸なんだ」という人はもう知らない。
私には何もすることができない。
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