自分の死は他人事である。
その言葉を聞いたとき、「たしかに」と頷いてしまった。
生きていれば、あれこれ自分の死について考えたりする。
どんだけ考えたとしても死は必ずやってくるし、死んだあとはもう考えることができない。
あとは残された人たちが死体の処理をするくらいだ。
何でそんなことを言い出したのかというと、宗教について考えを巡らしていたからである。
世界にたくさんある宗教。
何で宗教なんてものがあるのだろうかとふと思った。
最近、「それ、いらなくね?」と思うようになった。
私は、日本人で、無宗教である。
何の宗教にも属していないし、何も信仰していない。
いまの私には子どももいないし、財産もないので、どうかは分からないけれど、自分が死んだら仏教的な葬儀があげられるだろう。
日本での葬儀は大体が仏式だと思う。
お坊さんがぽくぽく木魚を叩いて低い声でお経を唱えて参列者はお焼香をして仏さんは柩に収められ火葬されて骨壷の中に入り四十九日を終えたら墓に納骨されるのが大半だろう。
誰かが死んだときと法事のときくらいしか我々は宗教に触れないのだ。
もうすぐクリスマスだが、12月の後半にクリスマスではしゃいだあとに、部屋の飾りを片付けて、大晦日には年越し蕎麦を食べて、寺で除夜の鐘を聞き、年が明けたら神社へお参りに行くのが日本人である。(私はやらないが)。
もうそういう日本人のはちゃめちゃなところは大好きだがちゃんと自分の宗教を信仰している人たちからしたらわけがわからないかもしれない。
新渡戸稲造は外国人からこう聞かれたそうだ。
「日本には宗教がないけれどどうやって道徳の教育をするんだ?」
そんなことを聞かれて、自国の精神について考えた末に『武士道』を書いたそうだ。
(まったくのうろ覚えなので違っていたらごめんなさい)。
私は日本人の義務だと思って「こころ」と「武士道」と「学問のすすめ」を読んだ。
何のことか分かる人は昭和生まれだろう。
ところが私は忘れっぽい頭なので何が書いてあったのかすっぽり記憶からこぼれ落ちてしまった。
まったくである。
そういう海外はどうなのだろうか。
私は最近になるまで外国の方はみんな何かしらの宗教を信仰しているものだと思っていた。
偏見だが、欧米諸国はキリスト教を信じていて、中東はイスラム教を信じていて、アジアでは仏教が信じられている。
大雑把に言うとそんなイメージを持っていた。
しかし、映画やドラマを見て知ったことだが、アメリカ人だってキリスト教を信じていない人はたくさんいた。
無宗教の人がたくさんいる。
これは驚きだった。
驚きだったけれど、「まあそうだよな」とも思った。
でも、無宗教だからといってその人がモラルを持っていないとか犯罪を犯すとかそういうことはない。
なので、道徳教育と犯罪と宗教は無関係だとも言える。
じゃあなぜ宗教なんてものが生まれたのだろう。
それはたぶんきっと現在よりも昔のほうが生きることが難しかったからだと思う。
貧困だったり、人種差別だったり、病気だったり、とにかく生きていくことが難しかった。
だから人々は救いを求めたのではないだろうか。
当たり前のことだがイエス・キリストはキリスト教徒ではない。
お釈迦様も仏教徒ではないし、ムハンマドもイスラム教徒ではない。
教えに従っているのが「教徒」なのである。
うん。何がいいたいのか分からなくなってきた。
ある日のこと、ゴミを出しに外に出たら道端に本が二冊落ちていた。
なんだろうと思って拾ってみたら大川隆法の本だった。
幸福の科学を作った人である。
「これは神の啓示だ」と私は思うわけもなく、せっかくだからという理由で家に持ち帰って読んでみた。
幸福の科学は、仏教を元にして作られている。
およそ仏教の話だった。
大川さんってひどく頭がいいのだなと思った。
なるほどと思う場面もいくつかあった。
ものすごく真理をついているようなことを言っていて、流石だと思ったあとに、「宇宙」や「魂」の話をしだして急にうさんくさくなった。
しまいには「信じられないかもしれないけどそうなんだもん」「それが真実なんだもん」みたいな口調だったので思わず笑ってしまった。
しかし馬鹿にはできない。
幸福の科学は世界120カ国以上に会員組織があり、日本の信者は1000万人を超える。
信者って何を考えているんだろうとときどき私は思う。
新興宗教は特にそうだ。
オウム真理教の布教ビデオなんて冗談にしか思えなかったがそれでも信者はいたのだ。
ますます分からなくなってきた。
それでも私は優しい人間なので分かろうとしてみた。
例えばキリスト教だが、私は聖書を持っている。
読んでみた。
だが、最初の一ページすら読み終えることができなかった。
「最初に光があって、神様がいて、世界を創って、休んだ」それしか覚えていない。
笑ってくれ。
とにかく量が膨大な上に文字が小さい。
よくこれが世界中で一番読まれれている書物だと思った。
それでも私はもう少し頑張ってみることにした。
いま、手元に『もう一度学びたい世界の宗教』という本がある。
- 宗教の基礎知識
- キリスト教
- イスラム教
- 仏教
- ヒンドゥー教
- ユダヤ教
- その他の民族宗教
- 日本人と宗教
について書かれている。
頑張ってみたが、62ページで読むのをやめた。
イースターの起源について書かれているところだった。
そして、例によりそこまで読んだ本の内容はすっぽり私の記憶から抜け落ちている。
ああ、宗教について書きたかったのに、結局のところ私は何も知らないじゃないか、ということに今更ながら気がついた。
だけどね、私は思うのです。
本当の平和な世界って、宗教のいらない世界なんじゃないかって。
宗教は、平和を願っているはずなのに、争いの元になっていたりする。
なんだかおかしい。
そんなこと、キリストもマホメットもお釈迦様も望んでいないだろう。
どうして教徒は布教をするのか考えてみると、それはイデオロギーの統一によって世界平和を望んでいるのではないかと考えたことがある。
たしかに、世界中のすべての人の価値観が同じだったら、価値観の相違による争いはおきない。
だけどそれは違うのではないかと最近思うようになった。
違うことを否定するのではなくて、違うことを認め合うことが大切なのではないかと。
日本は、そういうところが得意だ。
日本の強みってなんだろうって考えたときに、それは完全なオリジナリティのなさだと思ったりする。
日本から生まれたものって何かあるだろうか。
日本書紀とか神道なんかがそうか?
詳しいことは分からないので書けないが、私がいいたいことは日本は世界の「いいところ」を取り入れて工夫してオリジナリティを出していく国だと思う。
例えば平仮名とカタカナだが、元は漢字である。
漢字も、元は中国の生まれである。
日本人が作ったわけではない。
世界に輸出している車や家電製品も日本が発明したものではない。
資源のない国なので、資源を海外から取り寄せ、知恵をしぼり、加工して良いものを作り、世界に売り出しているのが日本だ。
宗教もそうはならないだろうか。
真の世界平和のモデルとなるのは日本人のスタイルなのではないかと思ったりする。
「宗教? なにそれ美味しいの?」
それでも日本は平和だ。
宗教について考えるとき、「え、それいる?」と思う私なのであった。
たぶんきっと、恵まれているから、そう言えるのだろう。
神に感謝する。
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