お味噌汁とか、白米のごはんとかを食べる気持ちにならなかったのでコーンフレークと牛乳を買いにコンビニにでかけた。
コンビニに付き、カゴをもったあとに、トイレに行きたくなったのでカゴをもとに戻してトイレに向かった。
扉を締め、ステテコを脱ぎ、便座に座った。
虫がいた。
カナブンみたいな虫だ。
ゴキブリだったら「おいおい」と思うけれど、カナブンみたいなやつなので排便しながら観察していた。
六本の足を動かしてこちらに歩いてきている。
生きているのだ。
殺す理由も店員さんに報告する理由もなかったので放っておいた。
コーンフレークと牛乳とお茶漬けの素とからしマヨネーズジャイアントコーンを買った。
『僕のヒーローアカデミア』の一番くじがやっていた。
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家に帰り、自分の部屋でくつろぐ。午前5時。
にわとりが鳴きはじめた。
もうすこししたら、おばあちゃんが起き出すだろう。
でもなかなか、「音」がしない。
わたしは天井を見上げて廊下に視線を向けた。
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もうすぐ90になるおばあちゃんはいつ亡くなってもおかしくない。
元気だが、そういう年齢である。
静かだな、ともう一度廊下を見た。
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深夜にトイレに行っていた。
昨日の晩、「肉とピーマンの炒めもの明日お味噌汁に入れる?」みたいなことを言って、「入れない」とわたしは答えた。
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最近思うことなのだけれども、おばあちゃんからなにかを聞く度に「もしかしたらこれが『最期の言葉』になるのかな」なんて、不謹慎なことを思ったりする。
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静かだ。
家のにわとりだけが鳴いている。
午前5時半。
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死について考え始めたのでなんとなくこうして文字にしてみた。
ひまなのだ。
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さっき、カナブンの話をしたけれど、虫といえば夏の風物詩ゴキブリさんである。
めんどくさいので、放っておくことが多いけど、場合によっては殺す。
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いつも、その、「動かなくなる瞬間」を見届けている。
さっきまで元気に動いていた体が、殺虫剤かなにかを吹き付けると、暴れて、もがき、
そして、仰向けになり、ぴくぴくしたあとに動かなくなる。
ゴキブリのいいところは死ぬと仰向けになるところだ。
その、死ぬ瞬間を見て、「命」とはなんなのだろうかといつも考える。
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例えばその、わたしは、「生きてるだけでえらい」みたいな言葉が嫌いで、違和感を覚えていた。
分からなくもないけれど、なんか嫌だった。
その理由はなんだろうって考えたとき、
「価値」なんだろうな、って思った。
価値。
命の、価値。
命そのものって、実は価値なんてものはなんにもなくて、ゴキブリも人間も動物も植物も命の価値なんてものは「ない」と思っていいい。
いや、宇宙的にみたら貴重だし、そういう面でみれば価値のあるものだけれども、ずいぶんとそれは「人間主体」な見方だ。
水素原子と酸素原子がくっつきたくてくっついて水になることと、精子と卵子が受精して命が生まれるのと、そんな差はない。
故に、命とは別に「地球より重い」ものでもなんでもないのだ。
でも、価値のある生命というものはある。
テレビで、有名人の訃報を聞いたとき、「大切な存在を失った」という気持ちになる。
失ったのだ。
だけど、ゴキブリが死んだことで、「大切な存在を失った」と思う人はいない。
同じ生命だが、明確な違いがある。
その違いとはなんなのか。
それは、「誰かに何かを与えてくれる存在」ではないのだろうか。
有名人は、たくさんの人に「何かを与えてきた」から、その命が亡くなったとき、喪失感を感じるのだ。
ああそうか、だからわたしは「生きてるだけでえらい」なんていう輩が嫌いなのだ。
偉くもなんともない。
ゴキブリと変わらない。
人間だけでなくて、命の価値は、「与えること」に尽きる。
なんにもできない糞みたいな「生きてるだけ」の人間より、ロースなりカルビなりハラミなりタン塩なり牛乳になれる牛のほうが偉い。
なんにもできない糞みたいな「生きているだけ」の人間より、さっきから鳴いている玉子を産んでくれるいえのにわとりさんのほうが偉い。
なんにもできない糞みたいな「生きているだけ」の人間より、男の子のロマンを見させてくれるカブトムシやクワガタさんたちのほうが偉い。
ああ、わたしはそうとう「生きてるだけでえらい」輩が嫌いなようだ。
死、とか、命について語っていたのに、なんだか悪口になってしまった。
いかんいかん。
がざっと、音がした。
どうやらおばあちゃんが起きたようだ。
廊下のカーテンを開け始めた。
おばあちゃんもわたしも、いつかはこの世からいなくなるんだろうな。
おばあちゃんは、わたしにたくさんのことを与えてくれた人なので、十分に偉大である。
だけどわたしは、誰かに何かを与えていただろうか。
限られた人生で、誰かに、何かを、与えることができただろうか。
人生とはなにか、それは、「誰かに、何かを、与えることである」わたしは、そう思う。
「生きてるだけでえらい」なんて言っちゃいけないよ。
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