教育と無条件の愛

エッセイ

「2024年の流行語大賞は『承認欲求』である。
 誰にも認知されないのって、寂しいものね」

 というツイート(ポスト)をした。

 SNSであるX(旧Twitter)を見ていて、承認欲求について考えない訳にはいかない。

 承認欲求を満たしたいために、さまざまなことをしている人たちが大勢いる。

 そのうちのひとりがわたしなのでそのことは否定しないのだが、

「なぜだろう」と思うところがある。

 結論から言おう。それは「愛」「無償の愛」「無条件の、愛」の欠如から出た欲求なのだということだ。

 親は子を、愛するものだ。

 それも、無条件に、愛する。

 もちろん、動物によっては、「生命」という観点において、差別が行われるけれど、親は子を無条件に愛することを本能で決められている。

 ところが、人は無条件に子どもを愛していないのだ。

 それはなぜだ、わたしは、それを現代の教育の弊害だと思っている。

「勉強ができなければいけない」「何かを出来るような子に育ってほしい」「お金を稼ぐ力を持てる子であってほしい」

 そういう願望から、子どもをそういう目で見る。

 わたし自身の話をしよう。

 わたしの両親は、わたしが物心ついたころから不仲で、常に父は家族外に居た。

 母の存在が、わたしの命綱だったのである。

 ところが母は、教育熱心だったので、子どもであるわたしたちに、たくさんの習い事をさせ、通信教育までやっていた。

 子どもだったわたしは、「母に認められるためにはそれらすべて頑張らなければならない」と、思っていた。

 なのでわたしは、母の言いなりとなり、母の望む子どもであることを目標にして行きてきた。

 勉強の通信教育、器械体操、ピアノ、ヴァイオリン、陸上、水泳、情操教育、ミニバスケットボール、レスリング、などなど、ほとんど毎日習い事で行きてきた。

 わざわざジュニアオーケストラまで入っていたりもした。

 わたしには、それがすべてだった。

 結果を残さなければ、「愛されない」と思っていたのだ。

 愛されない=生きていけないという切実感があった。

 大人になったわたしは、ふとふりかえって、「それって窮屈だな」と思うようになった。

 おかげで、というか、その反動で、わたしは中学に上がってからずべての習い事をやめて、自由に生きている。

 ここで言いたいことはなにかというと、

「愛されるために、子どもは努力している」ということである。

 子どもは、じつはバカではないのだ。無知でもない。

 常に親、大人たちの顔を見ている。

 そこで、どのようなことをしたら「愛されるのか」を察知しているのだ。

 ここで、わたしが感じていたことは、「結果を残さなければ愛されない」というプレッシャーだった。

 だけど、そんなものは、ほんとうはいらないのである。

 何もできなくていい。ただ、そこに生きていれば、それでいい。

 愛してる。

 それだけでよかったのだ。

 そうすればきっと、その子どもはのびのびと生きていられたのだ。

ーーーーーーーーー

 承認欲求を求める若者が増えた原因は、現代の日本の教育システムと、存在価値の決め方に問題があると思っている。

 存在価値の決め方とは、「お金を稼ぐことのできる人間」ということだ。

 そのための教育が行われている。

 わたしは思う。

 そんなものはいらない。

ーーーーーーーーー

 お金、という物差しで物事を見てしまっているから、お金を稼ぐことのできない人間は「無価値」である。という錯覚が生まれてしまっている。

 でも、ほんとうはそうじゃない。

 お金を稼げなくても、価値のある人間というものは、いるものだ。

 というか、本来は、人間すべてが、「価値のある人間」なのに、

 お金というものさしのせいで、お金を稼げない人間は無価値であると決められてしまっているというところに問題がある。

 わたしは、できることなら日本国内に「村」をつくりたい。

 貨幣制度に迎合しない、ちょっと共産主義的な「村」を作りたい。

 そこでは、誰もが「労働」をしなくていいのだ。

 誰かが日本国円を得る力があれば、それでよくて、他の人はそれぞれ得意な分野で日々生きていけばいい。

 そういう生活様式を「東アジア生活様式」と呼ぶとかなんとかと誰かが言っていた。

 わたしは、それでいいと思う。

 村の中で、それぞれが得意な分野で何かをし、製品をつくるなりサービスを行うことによって、「外貨」を得る。

 つまり「日本円」を得る。ということであるが、

 そこで日本のサービスを得ることが出来る。

 まああるいはそれは「日本」でなくてもいいのだが、あくまで日本で生きていくためのシステムの話だ。

 ーーーーーーーーーー

 現代は、とても窮屈である。

 現代でなくても、夏目漱石だって「窮屈」だと言っているんだから窮屈なんだろう。

 わたしは、もっと、自由に生きたい。

 そして、わたしは、子どもたちを無条件で愛すだろう。

 先日、自分の甥っ子と遊んだけれど、

 わたしは無条件にその子が好きだ。

 彼も、余計な知識がないので、無条件にわたしのことを気に入ってくれていた。

 わたしはたぶん、子どもなのだ。

 承認欲求なんて言葉が流行語にならないような世の中にしたい。

 わたしは、そう思う。

 

コメント

タイトルとURLをコピーしました