尊い

メッセージ

 煙草を吸いに家の外に出る。

 寒気がなだれ込み、一段と寒い。

 この寒気はいったい何処からくるのだろう。大陸の方からだろうか。

 日本は、いまは冬だけれど、南半球は夏だ。

 地軸の傾きによって季節が決まる。

 もうあと数度傾きが変わっていたらどうなっていただろう。そんなことを考える。

 冬だとか、四季だとかいう以前に、生命が生きていけない環境になるのかもしれない。

 そう思うと、改めて地球という星は「奇跡の星」だと感じた。

 火星に生命はいるのか、あるいはいた痕跡はあるのか。

 どちらにしろ、火星は地球ほど豊かではない。

 地球も、太陽がなければ枯れた星になっていただろう。

 太陽があって、ちょうどいい距離に地球があって、ちょうどいい具合にマテリアルが揃っていて、何かの具合で生命が誕生し、淘汰し、生き残った生物が進化をしていって、人類が「」を得た。

 文明が発達し、歴史が刻まれ、沢山の戦いの末、現在がある。

 運命についてときどき考える。

 私はいま独身で、恋人も居ないのだが、この先、運命の人とめぐり合うのだろうか。

 そんなことだ。

 私は結婚したいし、子どもが欲しい。

 当たり前のことだけれども、私の両親にも「独身」の時代があった。

 同じ職場で働いていたらしい。

 お互いが、その職場で働こうと思った動機は何だったのだろう。

 採用してくれた理由は何だったのだろう。

 同じ職場で働いていて、どのようにして好意を持ったのだろう。

 初めてのデートはどういった心境だったのだろう。

 何を以て、「結婚」を決めたのだろう。

 あまり考えたくないことだけれど、親がセックスしたので子どもができる。

 妊娠というものも、ほとんど奇跡だ。

 もし違う精子だったら、私は私ではなかっただろう。

 一億から四億ある精子の中からたったひとつが卵子と結合し、受精卵となり、細胞分裂を繰り返し、胎児となり、成長して産まれる。

 奇跡だ。

 そう考えると、私は奇跡の人なのかもしれない。

 そうだ、そうなんだ。俺は奇跡の人なんだ。

 あまり評価されないし、Twitterでツイートしてもリプは少ないし、恋人もいないのだけど、俺は奇跡の人なんだ。

 もっと敬え。

 いや、待てよ。そう考えると、この世に生きる人全員が奇跡の人じゃないか。

 みんな、奇跡の人なのだ。

 そう思うと、その人の言動や仕草や行動すべてが尊く感じられる。

 いま生きていることそのものも奇跡だ。

 私は小学3年生のころに交通事故に遭って、しばらく昏睡状態に陥っていた。

 もしそのときに、私がヘルメットを被っていなかったら死んでいたそうだ。

 ほんのちょっとしたことだ。

「ヘルメット? そんなんダセーよ」なんて子どもだったら私は生きていなかった。

 学校の決まりを守る「よい子」だったので、助かったのだ。

 昏睡状態から目覚め、そこから特に事故も事件も病気もなく生きてこれたものまさに運がいい。

 最近ニュースで死亡事故や事件などを目にすると胸が痛くなる。

 その人の命は終わってしまったのだ。

 それまで、生きてこれたのに。死んでしまったのだ。

 死ぬ間際に何を思ったのだろう。

「生きたい」「死にたくない」と思っていたのだろうか。

 自殺だったら、「苦しい」「辛い」と思っていたのだろうか。

 それは当人しか分からないし、もうこの世には居ないので聞くこともできない。

 命は、尊い。

 すべてが、尊く感じられる。

 目に映るもの、耳で聞こえるもの、肌で感じるもの、舌で感じる料理の味、排泄する喜びも、内蔵が健康である証拠だ。

 今というこの瞬間は、沢山の奇跡で出来ている。

 ときどき、実習に行った特別養護老人ホームの「うめ」さんという女性のことを思い出す。

 食事を食べるとき以外は生活のすべてがベッドの上だ。

 90幾つだったと記憶している。

 言葉は喋らないし、表情も特にない。ときどき苦しそうに顔をくしゃくしゃにするくらいで、笑ったり、怒ったり、泣いたりはしない。

 食事もすべてペーストされたもので、スプーンで口に運ぶ。

 目があまり見えていないのか、なかなか反応しないが、スプーンを口の中に突っ込めば嚥下する。

 美味しくはないのだろう。

 ベッドの上でのうめさんは、自分で動くことができない。筋肉は拘縮し、体は常に丸まっている。

 寝返りも自分では打てないので、決まった時間に職員が体の向きを変えに行く。

 排泄も自然には出来ない。

 看護師がやってきて、浣腸をする。

 手袋をした指を肛門に突っ込んで、そこで漸く便が出てくる。

 思っていた以上に大量の便が出るのに少し驚く。

「管」と私は思った。

 人は、ただの管なんだ、とそのときの私は思った。

 あのペーストが、口から入り、食道を下りて胃にいき、十二指腸を通り、胆嚢から胆汁が分泌されて小腸で混ざり、大腸を通って便になる。

「管」と、もう一度私は思った。

 人間は考える管だ。

 私は男なので、女の裸体が好きだ。

 可愛い女の子が裸でおまんこを広げていたら勃起するかもしれない。

 私はぽつねんとうめさんの性器を眺めていた。

 当たり前のことだが、欲情はしない。

 この性器は、遠い昔は産道だったのだろう。ここから誰かが産まれたのだろう。

 その前は、誰かがその性器に欲情していたのかもしれない。

 排泄が終わったあと、おむつを履かせ、ズボンを履かせ、正しい姿勢で寝かせる。

 部屋を出る前に私は壁に貼られていたうめさんの昔の写真を見た。

 まだ、「意思のある目」をしていたころのものだった。

 うめさんは、何かを思うのだろうか。

 思うことも、出来なくなってしまっているのだろうか。

 遠い昔は、うめさんも、何かを思い、考え、行動していた。

 それは紛れもない事実だろう。

 あと数年で終わろうとする命をもう一度見てから、私は部屋を出た。

 そんなことを、ときどき思い出す。

 私の言いたいことが伝わるだろうか。

 尊い、ということを言いたい。

 命も、運命も、奇跡も、偶然も、食べ物も、生き物も、植物も、空も海も陸も、水も空気も、空に浮かぶ星たちも、すべてのものが尊いのだ。

 もしかしたら私は死ぬ間際に涙を流すかもしれない。

 それは、悲しいからではなくて、「ありがとう」の気持ちで、涙が溢れてしまうかもしれない。

 私は、この世に生まれてきて良かった、と、思う。

 そして私は、自分の子どもにも、そう思ってほしいと願う。

 自分の子どもだけじゃないね。

 この世に生きるすべての人は、その尊さを感じきってほしい。

 そうすれば、犯罪も減るんじゃないかな。

 

 

 

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