「あのさー、朝、人としての道っていうか、真理(?)みたいのが分かったらさぁ、その日の夕方に死んじゃってもよくね?」
何を言っているのかまったく分からない。
孔子の言葉である。
「朝(あした)に道を聞かば夕べに死すとも可なり」
高校生のときに知った言葉だけど、未だにこの言葉の意味が分からないでいる。
死んでいいのならどうして「夕方」なんだろう。
「その日のうちに死んでもいい」というほど「悔いのないような生き方」なら、夕方でなくて、朝のうちに死んじゃっても後悔はないのではないか、と思う。
ほんの数時間だけ遊びたいのかな。
それともその「真理」を弟子に教えるために時間が必要なのかな。
よく分からない。
この言葉は様々な解釈がなされているようだが、そのどれを読んでもよく分からない。
本当は大した意味がないのかもしれないけど、孔子が言ったのだから重要視されているだけなのかもしれない。
どちらにしろ、孔子は死んじゃっているし、真実は誰にも分からない。
孔子は紀元前500年以上前の人間だ。
それから2500年以上経った現在(いま)も、人は人の道など分かっていないのかもしれない。
哲学のような話だけど、僕はあまり真理とか、人の道とかには興味がない。
命というものは限られているので、どれだけ生きているあいだに楽しめるかだけを考えている。
あとはそうだね、誰かに何かを残すことかな。
僕が生きていく上で大切にしていることはそれだけだ。
最近、いやに時の流れの速さを感じる。
朝、七草粥を食べた。そのあとまた布団に潜って思想に耽る。そのうち少し眠って、変な夢を見ているうちにお昼時になり、ようやく起きて、煙草を吸って、家計簿をつけてため息をついて、Twitterを眺めてヘアブラシを買いに出かけて、少しドライブをして、なんとなくブックオフに立ち寄って、『推しの子』の4巻を買って、家に帰って、読んで、
と、いうようなことがみんな「過去」になってしまった。
そのときは「今」であったし、「これから」だったものが、みんないまでは「過去」だ。
このブログもきっと「過去」になる。
このスピードになんともよく分からない感覚を覚える。
いままでの過去は全部過去のことだけど、そのときは「今」だったんだよな、ということが不思議だ。
僕はもうすぐ40歳になるが、25歳から35歳までの記憶が曖昧だ。
何をしていて、何を思っていたのかよく思い出せない。
調べてみたら焼肉屋で働いていたことが分かった。
「あああの頃か」とちょっと思い出す。
まだバンド活動をしていて、遠距離恋愛をしていて、同棲の話があって、それで正社員で働くようになって……。
不思議だ。あの頃は「今」だったのだ。
いまではただの記憶の中の出来事でしかない。
こうしている「今」も、すぐに「過去」となって、記憶の中だけの存在になり、そのうち忘れ去られてしまう。
明日はまだ来ていないけれど、明後日からしたら今日の明日は昨日だ。
過去に戻りたいとか、未来を知りたいとか、そういうことじゃない。
ただなんとなく、「今が過去になっていく」のを感じ取っているだけだ。
「朝に道を聞かば夕べに死すとも可なり」という言葉は、孔子が死を間近にして残した言葉らしい。
自分が死を間近にしたら何を思うのだろうか。
それは明日かもしれないし、今夜地震にあってそのときなのかもしれないし、平穏無事に生きていれば何十年後になるかもしれないし、僕が選ばれた人間なら200年後なのかもしれないし、2000年後なのかもしれない。
ああ、子どもが欲しいな。
もし自分に子どもがいなかったらそれは大変悔いが残ると思う。
もし子どもがいるのだったら、沢山のことを残したいと思う。
人の道なんてどうでもいいよ! 結婚相手だよ! 恋人募集中なんだよ!
ふえぇぇぇん。゚(゚´Д`゚)゚
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