不遇の時代をどう生き抜くか。
結論から言おう、それは「楽しむこと」だ。
不遇:[実力は十分ある(と本人は思っている)のに]不運で世間に認められないこと。また、その様子。
不遇、とても適した言葉だと思う。
「もうちょっと、評価されてもいいんじゃないかな」とか、「もうちょっと、望み通りの人生を歩んでもいいんじゃないかな」とか、そう思っている人は多いと思う。
僕がそうだ。
僕は振り返ってみれば、23年は不遇の時代を生きている。
高校進学を気に、人生で躓いてしまった。
それから、何をやってもうまくいかない。
23年という月日は大いに長くて、ここでは語り尽くせないほどだ。
それだけ、僕は不遇の時代を送ってきた。
もちろん、中にはいいこともあった。まったくイヤな人生を歩んできたわけではない。
ただ、うまく言えないけれど、僕はいまの自分に全然満足していない。
人生はプラスマイナスゼロだという説がある。
いいこともあれば、悪いこともある。でもそれは、人生という長い視点で見れば、すべてはプラスマイナスゼロになる、らしい。
確かに僕の人生すべてが不遇であったかといえばそうではない。
例えば僕は中学校卒業までの期間は、満足していた。
お金はなかったけれど、成績も良かったし、友達にも恵まれていたし、楽しかった。
つまり、15歳までの人生はよかったのだ。
僕は今年で38歳になる。
差し引くと23年だ。23年、不遇の時代を過ごし、苦労をしてきた。
人生プラスマイナス論によるならば、もうそろそろ何かいい結果がついてもいい頃なんじゃないかなと思う。
それとも40歳まではまだ不遇の時代が続くのだろうか。分からない。
けれどもう、いいんじゃないかと思う。
38歳、独身。もう結婚していても十分な年齢なのに、彼女すらいない。
一応仕事はしているが、定職ではなく、収入も少ない。年収にすると、70万ほどしかない。
だけど、向上心だけはある。自立心も、ある。努力だってしている。
なのに、現実はとても冷たいのだ。
そのことに、不満を持っている。
僕はどうにかしてこの不遇の時代を抜け出したいと思っている。
不遇の時代そのものを否定はしない。
もし仮に、なんでも思い通りになっていたら、それはつまらない人生になっただろうし、狭い視野でしか物事を見なくなってしまっただろう。
人生に於いて、そういう時代は必要だ。
だけどもう、十分だ、と、思っている。(さっきも言ったね)。もう、分かった。十分な仕打ちは受けてきたはずだ。
そろそろ受け入れられてもいい頃だと思っている。
一体何を言っているのだろう。自分でも分からなくなってきた。
ただ、そう思っている人はこの世の中に沢山いるだろう。
ある意味、それは贅沢だとも言えなくもない。
衣食住が足りているし、戦時中でもない、失業しているわけでもないし、不幸があったわけでもない。
そう思えば、いまの人生、十分事足りているとも言えなくもない。
吾唯足知。
それは間違いではない。
でも、向上心をなくしてしまったら、まったく成長できないのだ。
だから、「上を目指す」。
そのことは、ちっとも悪いことじゃない。
欲しいものがあったっていい。望む人生を求めてもいい。
だけど不遇の時代はやってくる。ついてまわる。
結果がつかないから、嘆く気持ちも分かる。
もういやだ、という気持ちも分かる。
だけどきっと、この不遇の時代を過ごしたことは、人生の糧になるはずだから、
だから、いまこの瞬間を楽しんで欲しい。
いつかは終わる。
いまは畑を耕している時期だ。種を蒔いている時期だ。あるいは、育てている時期。
その期間が長ければ長いほど、辛ければ辛いほど、実るものは大きく価値のあるものになるはずだ。
だから、めげないで欲しい。
いまを、楽しもう。
不遇の時代を楽しもう。
いつかきっと果実を手にするために。
そう、自分に言い聞かす。
コメント