はじめに
ただいまわたしの父はブログを書いています。
レオナルド・ダ・ヴィンチの罠を解き明かそうとしています。
ただでさえ難しい内容なのに、そのブログ本文も難しい。
何を言っているのかわからないし、伝わりづらい。
せっかく面白いことをしているのに、伝わらないのはもったいないと思い、わたくし、りょうきちこと勝馬将太が「翻訳してみること」にしました。
今日は、『夢芝居』の後半です。
原文はこちらです↓
前回までのあらすじ
レオナルド・ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』に見えた「不自然な手」。
「これは何かある」
そこからまずはトマスの「指」に目を向けた。
手の甲を向けたこのしぐさの意味は。
そして『岩窟の聖母』に見える「手のサイン」から推測した「本当の意味」とはいかに。
勝馬訳ダ・ヴィンチの罠#3『指芝居』後編1
まずはこの絵をご覧頂きたい。
ロンドン・ナショナルギャラリー版の『岩窟の聖母』です。
登場人物は
聖母マリア
大天使ウリエル
幼子のイエス
幼子のヨハネ
です。
アトリビュート(その者を特徴づけるアイテム)がしっかり描かれているので、
左の幼子はヨハネで、右の子がイエスだと、わかります。
ところが、同じダヴィンチが描いたパリ・ルーブル版はどうでしょう。
アトリビュートが描かれていません。
どうしてこのような違いが出たのかというと、前編でも書きましたが、そこには依頼主の教会と、製作者ダヴィンチとの軋轢があります。
ルーブル版の方では、ろくな報酬を得られなかったのです。
そのため、ナショナルギャラリー版ではほとんどを弟子が手掛け、このような形になったのです。
わたしが考えるに、ダ・ヴィンチがほんとうに伝えたかったのはルーブル版ではないのでしょうか。
アトリビュートを描かなかったのが理由のひとつです。
イエスとされている方が本当は「ヨハネ」で、
ヨハネとされているこちらの方がほんとうは「イエス」なのだと。
陰で伝えたかったのではないでしょうか。
他にも理由があります。
こちらの絵をご覧ください。
いずれも、イエスが上に居て、ヨハネが下にいます。
どれも、ヨハネが下からイエスを仰ぎ見るかたちとなっています。
もう一度『岩窟の聖母』を見てみましょう。
どうでしょうか。
左がヨハネとされていましたが、「上」に居ます。
右がイエスとされていましたが、「下」に居ます。
(これは、ただ、絵の配置がどうのこうの、という問題ではなくて、
「イエスがヨハネで、ヨハネがイエス」というところがポイントなのだと勝馬は思います)
もうひとつ挙げるとすれば、ダ・ヴィンチの師匠筋であるヴェロッキオの『イエスの洗礼』(1472-1475年)
こちらでは合掌するイエスに洗礼を施す洗礼者聖ヨハネの姿が描かれています。
つまり、「合掌している」ということは、「洗礼を受けているイエス」だと言えるのです。
勝馬訳ダ・ヴィンチの罠#3『指芝居』後編2
さらにこちらの画像をご覧ください。
勘のいい方は気づいたかもしれませんが、聖母マリアに抱かれる赤子のイエスは幼児のヨハネを祝福するポーズをとっていますが、聖アンナの左手は、『岩窟の聖母』(ルーブル版)での大天使ウリエルの右手の仕草とシンクロして、赤子のヨハネが幼児のイエスを祝福するというように左右で逆転する手を介してその意味が反転することを暗に示しているのです。
洗礼者ヨハネとイエスの年齢が、わずか半年違いであるにもかかわらず二人には明確に年の差がつけられているのはそのためで、ラファエロが描く作品にもそのような傾向(影響)が見てとれますが、果たして、彼がその意図や真意を理解していたのかどうかは不明です。
そしてまた、
この下絵が描かれたのは『最後の晩餐』でのトマスの謎の“人差し指”が描かれた時期から少しだけ時間が経過した1498年~1500年頃のことのようです。
つまり、この左手のサインは『岩窟の聖母』(ルーブル版)での大天使ウリエルの右手から『最後の晩餐』でのトマスの右手へ、そしてトマスの右手から意味深な聖アンナの左手のスケッチへとバトンタッチされたわけです。
※ここでの注意点は、右手から右手は同義または同じ人物を指し示し、左右が逆転すると対義あるいは別の人物へとその意味や対象が変化します。
※、以下、文字数により略、詳しくは原文をご覧ください。
まとめ
いかがでしたでしょうか。
翻訳を務めるわたくし勝馬も難しすぎてそれをどう「わかればいいのか」「どう伝えれば伝わるのか」がわかりません。
とにかく、「何かあるな」ということは間違いありません。
次回も、書けたら書きます。
こう、ご期待。
コメント
初期段階では、「何か違和感がある」とか、確かに「変だな」と感じるだけで十分です。