あなたはしあわせになりたいですか

エッセイ

 たぶんわたしのいうことは「余計なお世話」であるし、あなたにとって「どうでもいいこと」なのだろう。

 ただ何か、ちょっと「しあわせになるお手伝い」でもしようかなと思います。

 わたしはいま、ほとんどのことが「どうでもよく」なっていて、厭世的といえば厭世的な人間となりました。

 ちょっと昨日までは、「すべてのことがイヤ」で、何もかもに「嫌悪感」を抱いていました。

 お金持ちになりたいわけでもないし、特にほしいものもない。

 子どももいらないし、「家族」みたいなものにあこがれているわけでもない。

 彼女も恋人も欲しくないし、結婚したくもない。

 セックスだってしたくない。気持ち悪い。

 レストランで接客業をしているけれど、お客さんの笑顔なんてどうでもよくて、むしろ「うざい」「めんどくさい」とまで思えていて、

 まあ非道い人間だなと思いつつも、それが真実であったりする。

 その嫌悪感は、非常に不快で、良いものではない。

 でも、そう思っているのだから、「仕方がない」

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 そこから一日たって、今日、わたしは「虚無」に包まれていました。

 まったくの「無」です。

 わかりやすくいうと、なんでしょう、ロボットのようなものでしょうか。

 無です。

 自分という存在そのものがなくなって、ただ、時間になったから服を着替えて仕事に行った。

 そうなりました。

 レストランで接客業をしています。

 昨日は、「不快」だったものが、すべてなくなって、

 無となりました。

 お客さんがたとえばそう「パスタ」を頼んだ。

 わたしはそれを受ける。

 厨房がそれを作る。

 出来たら提供する。

 ただ、その「作業」をしていました。

 なんの感情もありません。

 でも、とても「らく」でした。

 面白くもないし、楽しくもない。

 でもその反面、「苦痛」でもなかったのです。

 もしかしたらわたしは、昨日の「不快な苦痛」から逃れるために、「心」を失くしたのかもしれません。

 だけど、「何も思わない」ことは、とても「らく」でした。

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 しあわせとは何でしょうか。

 わたしは、もう、しあわせとか、どうでもよくなりました。

 苦しく死ぬのはイヤですし、病気になるのもいやです。

 でも、「しあわせ」というものを、求めなくなりました。

 例えば、レストランに来るお客さんは、「おいしいものを食べたい」とか、友だちや家族や恋人と「楽しい時間を過ごしたい」と思っているのかもしれません。

 だけどわたしは、なんだろう。

「だからなんなんだ」と思ってしまうのです。

 太宰治もそうだったのでしょうか。(いや、太宰がどうのなんてどうでもいい話だ)

 ところであなたはなんで、「しあわせ」になりたいのでしょう。

 わたしには、その感情がわからなくなってしまいました。

 たとえば動物は、何か、生きることで、「しあわせ」とか求めているのでしょうか。

 犬やネコなんかはそういうのを求めているのかもしれませんが、

 じゃあ例えばアリとか、蛇とか、ナメクジなんかは、「しあわせ」でありたいなんて思っているのでしょうか。

 思ってはいないんだろうな、と思います。

 じゃあお前はそんな虫畜生と同じでいいのかと言われれば、「べつにいい」と思います。

 どうでもいい。

 苦しくなければ、どうでもいい。(あ、苦しいのはイヤなんだ)

 もういちど聞くけれど、「あなたは、どうして、しあわせになりたいんですか?」

 わたしには、そのことが、わからない。

 たぶんもう、「人間」ではないのかもしれない。

 ああなんか、犯罪でも犯さなければいいなと思いました。

 もしかしたらたとえば地下鉄サリン事件にかかわった人とか、無差別殺人なんかする人たちは、こういった「虚無感」に苛まれているのかもしれないな、と思いました。

 ああ、危険だ。

 そんな中、「なぜ、しあわせで『なければいけないのか』」について、ある一つの答えにたどり着きました。

 それは、もう、殺し文句です。

 これを言ったらたぶんきっとみんな納得するでしょう。

 言いますね。

 なぜ、人は「しあわせ」にならなければならないのか。

 言いますね。

「そんな人間になったら、親が悲しむぜ」「おふくろ、悲しむと思うよ」

 その一言ですべて解決である。

 ああそうか、と、ちょっと思えてきた。

 わたしは、厭世的で、世の中を憎んでいるのかもしれない。あるいは、虚無につつまれているのかもしれない。

 でも、そんななか、たったひとつ、イヤだなと思うのは、

「母親の悲しむ顔」である。

 そんなものは、見たくない。

 わたしは、別にしあわせでなくてもかまわない。

 でも、母親が不幸せになるのは、見ていられない。 

 もしここで、この殺し文句が心に響かないのなら、それこそ人間の終わりである。

 だけど、たとえば親に虐待されて育った子どもだったらどうだろう、なんてことを考えたりもする。

 村上龍の小説の、『コインロッカーベイビーズ』みたいな話だ。

 たしか、小説の中で、ロビンだかベゼルだかなんかそんなような名前の男が主人公のキクにこういうんだ。

「お前は、母親を殺していい資格がある」「殺していいんだ」と。

 ロビンでもベゼルでもなかったかもしれないが、まあいいだろう。

 ここで大切なことは、「殺していいい」という言葉である。

 「資格がある」ということなのである。

 もちろん、世の中的、モラル的には、「殺していい」わけがない。

 でもなんだろう。それさえも許されないのなら、あまりにも「キク」がかわいそうだとわたしは思うのである。

 キクは捨てられた子なので、虐待されたわけではない。

 それでもたぶんきっと、キクの中には、虚無があったのではないかなとわたしは考える。

 キクが、キクとして生きるために、「走り高跳び」をしていて、

 それとは別に、もうひとりの主人公であるハシは、おかまになり、歌手になったのだ。

 もしかしたら、キクもハシも、レゾンデートル(存在理由)のようなものを「無意識」に探していたのかもしれない。

 人間とは、もしかしたら、そういう生き物なのかもしれない。

 ところで、もういちど聞くけれど、

「あなたは、なぜそんなにしあわせになりたいのですか?」

 まあ、わたしにとっては、他人事なので、どうでもいい話だけれども、

 そういうことを考えることも、生きていく上では大切なことなのかもしれない。

 まあ、そんな話です。

 そうそう、たばこ会社の暴露本、

『悪魔のマーケティング』という本があるらしい。

 たばこを吸うことのバカらしさがわかるみたいだ。

 わたしからしたら、大体のことはたぶん「わかってる」

 たばこがあほらしいことも、知っている。

 金を巻き上げられていることも、知っている。

 おかげでわざわざ面倒な労働だってしていることも、知っている。

 だけどね、わたしがね、あほらしい煙草を吸っているのは、

 たぶんきっとこういうことなんだと思う。

「そういうあほらしいことでもしなければ、やってられないのだ。

 愚かであることで、自分をごまかしているのだ。

 普段の嫌悪感や不快感から目をそらすために、あるいは、堕ちていくために、わざわざ騙されて、ごまかして、生きているのだ」

 それが、わたしがたばこを吸う理由である。

(あなたにとってはどうでもいい話だったねごめん)

 たばこを本気でやめたい人は読んでみるといいかもしれません。

 わたしもきっと読むだろう。

 ああ、なんだか話が長くなってしまった。

 結論でも言おうか。

まとめ

 人が、しあわせになる理由なんて人それぞれだ。

 しあわせになる必要だってないのかもしれない。

 それでもね、

 あなたが、厭世的であったり、世の中を憎んで生きていたら、

 きっと、あなたの母親は悲しむだろうと思うよ。

 あなたの人生は、あなたのものだから、あなたの勝手である。

 だけどね、あなたが生まれたとき、

 それは、「母親の人生」の一部だったんだよ。

 あなたの母親が、お母さんが、おなかを痛めて、産んでいた時間が、

 あなたの人生のスタートだったんだ。

 あなたは、あなた。

 あなたの人生は、あなたの人生。

 だけどあなたは、あなたの母親の人生の一部でもある。

 あなたがしあわせになる理由があるとすれば、

 それはもしかしたら、そんな、母親の笑顔を見ることなんじゃないだろうか。

 ああ、よくわからんが、

 泣けてきた。

コメント

  1. 「しあわせ」は、〝しあわせ〟や〝仕合せ〟や〝幸せ〟や〝倖せ〟な者や時には、気づきにくいものかも知れません。

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