それがわたしの生きる道

雑文

 高校3年生の夏。青い空と照りつける太陽。外の水道の蛇口をひねって、水を飲んだ。

 現実というものが、とても「あっけないもの」だと、知った。

 胸のまわりがぴくぴくと震え、首の後ろが固くなる。今までやってきたことのすべてを思い出した。

 思い出すと、どうしようもない悔しさが溢れてきて、その感情が、涙となって現れた。

 まわりに人が大勢いる。人前で泣くなんて、みっともない。だからオレは、顔を洗うふりをして、泣いた。

 それが、わたしが人生ではじめて味わった、「敗北」という二文字だった。

 ーーー

 高校生活での部活動。わたしは「努力は報われる」ということを、証明したかった。

 ここでは書ききれないほどの努力をわたしはしていた。部活動をやっていたものなら、わかるだろう。高校球児でなくても、文化部でも、本気でやったのなら、わかるだろう。

 わたしはテニス部で、ずっとずっと「勝ち」を追い求めていた。

 最後の最後の大会だった。その大会が終われば、引退を控えていた。その、最後の最後の大会で、わたしは、「初戦敗退」だったのだ。

 わたしは強い選手ではなかった。レギュラーになれることはついぞなかったし、部活動は、ただただ「自分」との戦いだった。

 練習試合でも、負けることのほうが多かった。

 それでも、「努力は必ず報われる」という言葉を信じて、毎日毎日練習をしていた。

 いまでも覚えている。運動公園の外周を走っていて、レギュラー陣が座り込んでしゃべっているのをみた。「いいのかよ」といったら、「いいんだよ、今日顧問来ねえし、適当にやろうぜ」と笑っていた。

 わたしはそれを見て、「ぜってえこいつらには負けねえ」と誓った。休むことはしなかった。走って、走って、筋トレをして、部活が終わった後も、壁打ちをしたり、サーブの練習をしていた。

 いつだってそう、ぜったい負けたくないって思って、努力をし続けたのだ。

 練習試合で負けて、悔しくて、反省して、分析して、また練習をして、それでもまた負けて。

 やめていくものも多かった。限りある高校生活。友だちといっしょに放課後遊んだり、あるいは彼女なんかを作って青春をしたり、そういうことをしたってよかったのだ。

 だけどわたしは部活動をやめることはなかった。いつか報われると、信じて。

 それなのに、現実は残酷で、わたしに初戦敗退という黒星を与えた。

 わたしの通っていた高校自体、テニスが強いところではなかったので、チーム戦でも、負けた。だれも、泣いてなんていなかった。裏で泣いていたのは、わたしだけだった。

 ーーー

 どこかで何かを「諦めて」しまったのだろうか。

 大学進学したわたしは、少しはっちゃけるようになった。

 まじめにやるなんてバカバカしい。努力なんて報われない。それよりも、遊んだり、彼女を作って楽しんだほうがよっぽどましだ。

 そんなわたしを変えたのは、寮に住む先輩だった。先輩は、赤髪で、モヒカンで、ピアスで、一見恐そうな雰囲気で、近寄りがたかったが、仲良くなってみると、性格は穏やかで、優しかった。

 その先輩がやっていたのがギターだった。

「しょうちゃん、バンドやろうぜ」と、誘ってくれた。

 わたしは、まだ、諦めきれていなかったのかもしれない。高校ではだめだったけど、まだ、「終わり」じゃない。

 だからわたしは、「夢」を、追いかけることにした。

 音楽活動をしながらわたしは小説を書いた。小説は、高校時代から書いている。何か「結果」を残したい。あのころ嗤っていたあいつらを、見返してやりたい、そういう気持ちだった。

 なんとか書ききった長編小説を出版社の新人賞に送った。それは、一次選考さえ、通らなかった。

 そこで一旦筆をおいたわたしは、音楽一本の道を進むことにした。大学は辞めた。

 バンドで成功して、みんなを見返してやるんだ、そういう志を持っていた。

 ーーー

 こうやって、わたしが送ってきた人生を振り返ったら、本が一冊あっても書ききれないだろう。

 だから、省略して書きます。

  • はじめてのバンドを組むが、わけがあって抜ける。
  • ひとりでメンバーを探し始める。
  • 探すものの、なかなかメンバーは集まらない。
  • 加入と脱退を繰り返す。
  • それでも音楽を続ける。

 そして、気がつけばわたしは21歳となっていた。

 成人としての自覚と、母親のことを考えた。大学を中退して音楽活動をしてきたけれど、鳴かず飛ばず。そろそろ潮時かもしれないと思い、わたしは長かった髪をばっさりと切って、営業の会社に就職した。

 ところが、営業成績がゼロだったわたしは、一ヶ月で首になった。

 え?

 一ヶ月? ゼロ件?

 首を宣告されて、会社を出たわたしは、歩きながら涙をこぼしていた。自分の無力さがくやしかった。

 大学を中退して、音楽の道に進んだのに、何もできない。ロックバンドマンとしてのプライドであった長い髪まで切って就職したのに、たった一ヶ月で首になった。

 こんなに情けないことがあるだろうか。どうして社会はオレを認めてくれないんだろう。

 これがまた、人生で味わった二度目の「敗北」だった。

 ビルとビルの間にしゃがみこんで、嗚咽した。「お母さんごめんよ」「お母さんごめん、こんな情けないオレで」と。

 ーーー

 何かが壊れていった。

 何もしないアルバイトをしているだけのフリーター生活を得た後、わたしは夜の仕事についた。

 奨学金の返済があって、それが払えなかったので、なんとかしてお金を稼ぎたかった。

 だから、華やかな夜の世界に飛び込んだのだった。

 華やかさとは裏腹に、そこには厳しい世界があった。

 厳しい世界で、離職者が非常に多い。だけどわたしは、まだ、心のどこかで何かを信じていたのかもしれない。

 わたしはそこで、次長になり、店舗責任者にまでなった。

 ただ、精神がボロボロの状態になってしまった。

 給料は多かったが、仕事で抱えるストレスを発散するために、散財していて、気がつけば借金が増える状態になってしまった。

 このままではいけないと思い、夜の世界から足を洗った。

 ーーー

 そして、昼の仕事、営業職につくが、またしても「結果」を残せず、首になった。

 心がどんどん疲弊していく。

 京都で一人暮らしをしていたが、家賃が払えなくなって、強制退去となった。

 そして、地元である静岡に帰ってきたのだった。23歳の初夏だった。

 ーーー

 再び音楽活動をはじめた。だけど、順風満帆にいく世の中でもなかった。

 気がつけばわたしは30歳になっていて、最後のバンドを解散した。

 だけど、まだ諦めないわたしは、ひとりで「ボカロP」として活動することにした。そしてまた、小説を書くことも続けた。

 病気になったのは、その頃からだ。

 たしかそのころは4つほどアルバイトを掛け持ちしていたと思う。

 アルコール依存症にもなり、どんどん壊れていった。

 仕事にもろくにいけなくなってしまい、母と病院に行くようになり、「入院」という運びとなった。

 そこで、わたしは2年と2ヶ月ものあいだ、入院生活を送った。

 このころのことは、よく覚えていない。病気のせいなのか、薬の副作用なのか、わからないけれど、覚えていない。

 退院した後、社会復帰をめざして、仕事をはじめた。

 業務委託からはじめて、そこからアルバイトを掛け持ちして、正社員となって、

 そして、また、壊れた。

 思い返せば、高校生だったあの日から、わたしは、何一つ「勝って」などいないのだ。

 負けて、負けて、負けて、負けて、負けて、負けて、負けて、負けて、負けて、負けて、

 それでも、歯を食いしばって生きてきた。

 なのに、どうして結果がつかないのだろう。

 20年、やってきた。20年もの間、ずっと、負け続けてきたのに、諦めないで、やってきたのだ。

 なのに、報われない。そんな悔しいことがあるのだろうか。

 だけどまだ、わたしは、諦めないのだった。

 全力で、小説を書いた。

 これが認められなければ、社会のほうがどうかしている。わたしは、全身全霊を掛けて、小説を書いた。

 20年の思いを込めて、20年の重さを背負って、書いた。

 そうして完成したのが、小説『太陽の花』である。

 ここから先はまた次のエピソードとして書くとしよう。

「努力は必ず報われる」という言葉を、わたしは信じないようになった。

 だけど、「成功した人のすべての人が、必ず努力をしている」という言葉を信じるようになった。

 わたしの努力は報われないかもしれない。でも、諦めたら、そこで終わってしまうのだ。

 わたしはまだ、諦めることを知らない。

 きっとバカなのだ。

 でもね、やっぱり悔しいんだよ。

 あのときの涙を、忘れたくないんだよ。

 悔しくて悔しくて悔しくて悔しくて悔しくて悔しくて、仕方がなかったんだ。

 どこかで見切りをつけて、諦めて、社会に染まっていくのが「大人」なのだとしたら、わたしはずっと「少年」でいたい。

 バカみたいだって思われても、まわりが嘲笑っても、わたしは、わたしの道を生きていきたいのだ。

 今回のプロジェクトは、うまくいかないのかもしれない。

 社会がまた、わたしを蹴落とすのかもしれない。

 それでもきっとわたしは、「諦めない」のだろう。

 それがわたしの生きる道なのだ。

 

 画像はUnsplashKimson Doanが撮影した写真

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