はじめに
こんにちは、いおりです。

昨年の11月くらいから、ふとしたきっかけで坐禅をするようになりました。
ヨガとか瞑想ではなくて、坐禅です。
偶然にも私の家は曹洞宗で、曹洞宗の開祖である道元禅師の教えで「只管打坐(しかんたざ)」というものがあります。
難しいことは分かりませんが、要するにに「ただ座れ」ってことです。
ただ座れ。
坐禅をする。
ただそれだけ。
英語で言えばJust do the Zazennといったところでしょうか。
仏教って難しいなとかいろんな宗派があって分からない。そう思っていましたが曹洞宗の開祖が「ただ座れ」って言っているので衝撃的でした。
「え、それだけでいいの」と思った私は「じゃあやってみる」と思い実践しています。
ほとんど毎日お風呂上りに坐禅をしています。
そこで気づいたことがいくつかありました。
なのでそのことを発信していきたいと思います。
今を大事に
仏教の教えで「今を大切にしよう」「今が大事だ」というものがあります。
般若心経ではいろんなことを「そんなものは無い」と言っているので、「過去」というものも無いとされています。
普通に考えると、過去から現在に時間が流れていて、そして現在から未来へと時間が進んでいくとなっています。
でも、仏教的な考えでいくと、「そんなものはない」あるのはたった今感じている「今」だけだ。
そんなふうにも思えます。
坐禅をしながら、私は過去のことを思い出し、「あの過去はなんだったのか」と考えていたりします。
例えば小学生のころの自分。
例えば大学生のころの自分。
例えば社会人になって苦労していたころの自分。
もっと近い過去で言えば、レストランで働いていたときの自分とか、入院していたときの自分とか、いろいろ考えます。
あのころはそれが現実としてあったのに、今は姿かたちもなく、何もない。どんなに手を伸ばしたってそれを掴むことも再現することもできない。
つまり、過去なんてものはもう存在しないのです。
今思うと、「今の私ならあんな判断はしないな。もっと賢い選択をするな」と思うことが多々あります。
じゃあなんで、過去の私は(今思えば)おかしな選択をしたのだろう。おかしな考えをしていたのだろうと考えていくと、結局その当時はそれがベストだったとしか言えないような気がします。
つまり、今、現在ではそのときの失敗というデータがあるからそれをもとに判断できますが、過去はまだそういったデータがないのでそのとき持っている知識や経験でしか判断することができない、ってことです。
だからなんていうんだろう。
今では過去の自分に対してああだこうだ言えます。もっとこうしていたらよかっただとか、もっと別の考えがあるだろうって言えます。
と、いうことは、未来の私からしたら現在の自分もおかしな選択、おかしな考えをしているのかもしれないと言えることです。
おそらくそれは正しいでしょう。すごく未来の50代とか60代になった私は若い頃の自分に対して「もっとこうしたらよかった」とか「ばかじゃないか」と思ったりするのでしょう。
でも、じゃあ今の判断が悪いのかと言うとそうではなくて、
今は今持っている知識と経験でベストを尽くす、そうすることでしか前へ進めないような気がしてきました。
今、「現在」というのは、過去なのです。
もっと分かりやすく言いうと、今の私というのは未来の私の過去の私なのです。
あ、と私は思いました。
自分が死ぬときのことを想像しました。
自分が死ぬとき、老人になったとき、きっと若い頃の私を思い出すだろう。
そのとき、もう私は過去なのである。
この感覚伝わりますか?
もう少し別の言葉でいうならば、「今の行いによって未来の自分が決まる」ということです。
例えば学生時代、勉強を頑張った自分と勉強をやらなかった自分がいるとします。
そうするとその後学歴も変わってきますし、人生も大きく変わってきます。
もっとミクロの話をすると、たとえばダイエットをしていて、筋トレを自分に課しているとします。
で、やるかやらないかといつも迷うと思います。
で、やった自分の未来にはダイエットに成功してスリムな私がいるけれど、めんどくさがってさぼってしまっていたら永遠に成功しない私のままです。
つまり、今やれるベストを尽くせってことです。
たとえそれが未来の自分からみたら阿保らしいことでも、愚かだと言われることであっても、今現在は今現在の力しか持っていないので、とにかくそのベストを尽くせってことです。
なんとなく伝わったでしょうか。
散った星
この世で最速とされる光でさえ時間というものがあります。
分かりやすい例で言うと今地上に降り注いでいる太陽の光も八分前のものである、といったことです。
夜空の中で、光っている星、もしかしたらもう存在しない可能性というのもあるのです。
そして、どこかでピカっと光爆発して終わります。
宇宙の中に見る惑星の死と人間としての死、人生というものはなんだか似ていると思いませんか?
ピカっと光った惑星の光の中にはそれまでの歴史というものが詰まっています。
惑星が誕生してから爆発までの間に、すごく長い時間があったと思います。
ピカっとした一瞬の光に、数億年の歳月が込められているのです。
人間の人生八十年としても、宇宙の規模からしたらほんの刹那の一瞬のことです。
宇宙からみたらごくごく微小の光に過ぎません。
人生なんて、そんなもののような気がしてきました。
記憶の人
私の部屋に亡くなった祖父の写真が飾られています。
亡くなってしまったので、もう祖父と会えることはありません。
でも、私の記憶の中には祖父はいて、祖父との思いでもありありと思い出すことができます。
そして私もいずれ死ぬでしょう。
そうあったとき、私の存在でさえ、誰かの記憶の中の一部でしかなくなってしまいます。
もっとあっさり言ってしまえば、私なんてものは存在しないということです。
私とはなんなのか。
ある和尚さんは私に向かって「お前は空(くう)だ」と言いました。
般若心経、色即是空、空即是色の「空」です。
その言葉についていろいろ考えていて、ああ確かにと思ったりします。
私と言う存在なんてものは、私が生まれてきてから受け取ってきた情報の塊に過ぎなくて、その情報、脳細胞が量子力学的観点から見ると勝手な「ふるまい」をしていて、それが自分の意志や想いというものを作っているに過ぎない、
ということです。
東洋哲学というものは西洋とはかなり違います。
西洋哲学、西洋思考は「自己」を確固たるものとして在り、哲学者は「我思うゆえに我あり」とさえいいます。
でも、東洋哲学、仏教の世界では自分なんてものは無い、何も無い、となっています。
その、何も無い、自分なんて無い、ということが、最近分かるようになりました。
だからちょっと歪んでいるかもしれませんが、人々を見たとき、私はその人たちを「人」とは思わなかったりします。
あ、勝手に動き考える生きる記憶媒体だ、
そういう風に人を見ます。
そう思えると、なんだかとても嫌な人とか嫌いな人でさえただの生きるメモリースティックに過ぎないと思えませんか?
たぶん歪んでますね。
人生はありがとうを集めるゲーム
最近目から鱗が落ちた言葉があります。
それは「人生ってありがとう集めゲームなんです」
と。
ああ、と感嘆しました。
自分なんてない。過去も未来もない。在るのはたった「今」在る世界そのもの。
もっと広く言ってしまえば、私は世界の一部であり、ゆえにこの世界そのものなのだということです。私はただの世界の情報の一部で、しかしそれ故に「自由だ」ということです。
そこで何をするかって、自分以外の人たちに何かを与えて、それで喜んでもらって「ありがとう」って言われること、そのありがとうを集めるためのゲームがこの人生でないかと、
そう思えるのです。
自分とはなんなのか、人生とは何か、私はどう生きていったらよいのか、そう悩むことはあります。
でも、人生の指針として「ありがとう集めゲーム」ということを心に置いておくと、なんだか素敵な人生を送れそうじゃないですか?
そう思うと、いろんな悩みとか苦悩が楽になります。
まとめ
いかがでしたでしょうか。
私がお風呂上りにやっている坐禅で気づいたことを紹介しました。
これを読んでくださった方が何か心が楽になったとか、前向きに生きるエールとなれたなら幸いに思います。
ありがとうございました。
トップ画像はUnsplashのNatalieが撮影した写真です。
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