絡んでくれる皆様へ

雑文

 最近、Twitterをひらくのが楽しい。

 私はTwitter歴10年以上だが、こんなに楽しんでいるのははじめてである。

 それというのも、最近はいろんな人と絡めるようになったからだ。

 こちらから絡むこともあるし、向こう側から絡んでくれることもある。

 些細なことだ。

「おはよう」や「おやすみ」そして「おつかれさま」そんなようなこと。

 それだけなのに、楽しい。

 どうしてだろうと思う。

 どうしてだろう?

 それはたぶんきっと「ひとりじゃない」と感じられるからだ。

 ひとりじゃない。こう思えることはとても心強い。

 きっかけはあるひとりのフォロワーさんの言葉だった。

「絡みましょー」ただそれだけ。

 それに返信したことから、いろいろな人と絡むようになった。

 たった2週間くらいのことなのに、とても充実している。

 それは現実世界でもしっかりと反映されている。

 休日も、仕事をしているときも、なんだか楽しいのだ。

 目が見えることや、手を動かすこと、言葉をしゃべること、ただそんなことが嬉しく思う。

 生きていることそのものが、嬉しく感じるのだ。

 Twitterにそんな力があったなんてと、改めて驚く。

 いい世の中になったものだなと思う。

 当たり前のことだが、私が学生のころにはTwitterなんてものはなかった。

 携帯電話すら持っていなかった。(はじめて持ったのは高校3年生のころである)。

 そうなると、友人というものは限られてくる。

 本当に気の合う人くらいしか、関わり合いを持たないのだ。

 そういう世界は、とても狭い。

 たとえば自分の好きなものも堂々と言えない時代だった。

 私はアニメやボカロが好きだが、私が学生時代、そういう人たちは影の中にいた。

 気の合う人もあまりいないし、孤立していた。

 孤立していると、性格も暗くなる。

 だがいまは違う。現実世界で言えないようなことでも、ネットの世界では堂々と言うことができる。

 そして、同じ気の合う仲間を見つけることができる。

 そういう人たちと交流を深めることで、自己肯定感が強まっていくのだ。

 たぶんきっと、いまの世の中のオタクたちは明るいと思う。

 明るくなれるというのも、ネットの世界のメリットだと思う。

 私は、根暗ではないがほどんどしゃべらない人間である。

 しゃべるのが得意ではないし、口もうまくない。話題も豊富でもないし、実のところあまり他人に興味がない。

 ところがTwitterの中では私は明るい。

 現実世界で、挨拶をしないわけでもないが、現実世界では絵文字や顔文字なんてものはない。

 明るく接するためには、顔を作ったり、声を作ったりしなければならない。それはちょっと疲れる。

 だけど、挨拶がテキストなら気が楽だ。

 そして逆に顔や声が分からないためより内容に気をつけたりする。

 分からないからこそ慮る気持ちが芽生えるのだ。

 なので、たぶん私はネットやTwitter上では現実よりも「いい人」である。

 素の自分になれることもネットのメリットだと思う。

 最近絡んでくれる人たちは私のことを「りょうきち」と呼ぶ。

 呼び捨てだ。

 それも、20歳以上年下の子からそう呼ばれる。

 現実世界ではありえないことだが、Twitterでそう呼ばれても全然不快ではない。

 むしろ嬉しかったりする。

 Mではない。

 素の自分と接してくれているんだなと感じるからだ。

 年上だとか、あるいは性別だとか、容姿だとか、ファッションセンスだとか、貧富の差だとか、地位とかポジションとか、あるいはつるんでいるグループだとか、そういうことをとっぴいて「ひとりの人間」として接してくれている。

 そのことがとても嬉しいのだ。

 役割を演じていないとも言える。

 多かれ少なかれ、人は社会の中で役割を演じている。

 それは上司だったり、先輩だったり後輩だったり、親だったり子だったりする。

 なので人はその場面場面で仮面を被っているようなものだ。

 それを心理学では「ペルソナ」というのかな?

 そういうペルソナ越しの関係ではなく、ひとりの人間対人間で接することができるところがネットやTwitterの魅力である。

 ある意味、かっこつける必要がないのだ。

 上司だから、年上だから、部下、年下にはこう接しなければならないというようなことがない。

 素の自分でいられる。

 だからといってなんでもかんでも言っていいわけではない。

 マナーやルールはある。

 気に入ったからといって執拗にリプやDMを送ったりするのはマナー違反だ。

 私には経験がないがそういうことをされたらイヤだ。

 そういえば、現実ではイヤなことでもTwitterでは別にイヤじゃないことがある。

 それは「無視」である。

 たとえば現実世界で、「おはよう」と挨拶をして、返事が返って来なかったら「ム」となる。

 だが別に、Twitterで「おはよう」の返事が返ってこなかったとしても私は全然気にならない。

 私が勝手に送ってしまったものなので、相手がそれに返事をするのも勝手である。

 なので、気にならない。

 残念ではあるが、落ち込んだり人間関係に悩んだりすることはない。

 「別れやすさ」もTwitterでは容易である。

 あんまり関わりたくないな、イヤだなという相手はブロックすればよいのである。

 現実では関係を切るというのはちょっと厄介だ。

 学校や職場では面と向かって会わなければいけない。そこで関係を切るようなことはちょっとした溝になる。

 周りの人たちへの影響も及ぶし、社会的な評価に繋がったりもする。

 でもTwitterでブロックするのは簡単だ。

 たとえばストーカーだが、現実でのストーカーはとても危険である。

 身の危険も、心への危険も及ぶ。

 関係を切りたくても、向こうが執拗に迫ってくることもある。

 時にはそれが犯罪になってしまうこともある。

 そういう現実での危険性がTwitterにはない。

 まったく危険がないわけではないが、対応を間違わなければ、楽しんで利用することができる。

 その他には、距離と時間を超越している点が挙げられる。

 ネットやSNSがなかった時代では遠い人とコミュニケーションを取るには電話か手紙くらいしかなかった。

 電話はお互いの都合があるし、ある程度親しくなってからでないとできない。

 手紙は遠くの人とやりとりができるので便利だが、時間がかかる。

 だがネットではレスポンスがすぐだし、いつでもいい。

 便利だ。

 時間を短縮できるので多くの人と関わることもできる。

 ネットでの話だが、友達が多くできる。

 まったくもって便利な世の中である。

 まだメリットを挙げることができるが、読むのも疲れてきたころだろう。

 そろそろまとめる。

 私は最近、Twitterをひらくのが楽しみである。

 繋がりを感じ、ひとりではないと感じられることで、現実世界でも自信を持って生きていくことができる。

 それはいいことだ。

 いつも絡んでくれているフォロワーさん、ありがとう。私は楽しい。

 これからも絡んでください。

 そしてまだ、絡みたくても絡めないあなた、お気軽にどうぞ。

 私は両手を広げて待っている。

 今日がもうそろそろ終わろうとしている。

 明日もいい日になるといいな。

 ありがとう。

 

 

 

 

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