『DIVE TO BLUE』はラルクアンシエルの9作目のシングルである。
私の好きな曲のひとつだ。
PVも好きで、昔よく観ていた。
ダイブマンと呼ばれる男がビルの屋上から飛び降りるのだけれども、飛び降りているあいだに各階に住むラルクのメンバーたちが映し出される。
それぞれがそれぞれの生活を送っている中で、異変に気づく。
窓から顔を出し、様子を確認する。
ダイブマンは最初羽ばたいていたようだったけれど、途中で何かに気づいたのか、頭を抱えもがく。
最後にネコを抱えたhydeとメンバーたちが下でダイブマンを迎える。
ダイブマンは笑う。
というビルから飛び降りて地上にたどり着くまでのワンシーンを5分ほどの曲で演出されている。
今日のテーマはラルク祭りではなくて、引き付けるPVの作り方でもなくて、高い曲の歌い方でもなくて、「自殺」である。
自殺だ。
PVの演出だからいいものの、実際にビルから飛び降りたら人は死ぬ。
運がよければ生きているかもしれないが、怪我を負うし、場合によっては後遺症が残る。
ラルクアンシエルのボーカルであり、主に作詞を担当するhydeは何かのインタビューで「様々な死について考えている」というようなことを言っていたような気がする。
『花葬』なんかもそうだし、『IT THE END』なんかもそうなのかな。
『All Dead』や『Driver’s High』なんかもそうなのかな。分からないけど。
私も死については考える。
人間なら誰しも「死」について考えたことがあるだろう。
今日はその中で「自殺」について考える。
自殺。できれば止めたいが、自ら死に向かう人はいる。
2020年、令和2年の日本での自殺者数は21,081人らしい(警察庁調べ)。
他のデータによると全国で20,919人と出ている。
約2万人の人が去年自殺をしている。
原因は様々で、年代や職業などのデータがネットで見れるので興味のある方は調べてみるといいだろう。
どうしたら止められるのだろうか。
もし私の知り合いで、自殺をしようとしている人がいるのなら、私は止める。
まずは話を聞くし、できることなら力になりたいと思う。
何か方法はあるはずだ。
生きている者なら誰しもいずれ必ず死ぬのだから、何も死に急ぐことはない。
だけど自殺をしようとしている人は、想像もできないほどに苦しくて辛いのだろう。
もしかしたら何か「責任」を取る形で「自決」を選んだのかもしれない。
私はどうなのかというと、私も自殺を考えたことはある。
遠い記憶だが、高校生のころはよく自分の住むマンションの最上階に行くことが多かった。
外階段の踊り場で、下を覗き込む。
ここから飛び降りたら楽になれるのかななんてことを考えていた。
何が苦しかったのかまではいまでは覚えていない。
ただ、何かがいやだった。
自殺に関する本を読んだり、映画を見ていたりしていた。
最近の記憶だと、統合失調症で入院する前のころだ。
うつ状態にもよくなった。
返せない借金を抱えていたし、仕事もまともに出ることができないでいた。
「自分は生きていてはいけない存在なのだ」と思っていた。
家賃とか、水道光熱費だとか、生活費だとかが足りなくて、何度も無心しに行った。
その金で煙草や酒を買っていたりしていた。
どうしようもないクズだと思っていた。
いつしか、「声」が聞こえるようになった。
「死ねよ」と言ってくる。
職場の人々も、客も、親戚も、去っていった友人たちも、全員で「死ね」と言ってくる。
世界中のすべての人が私に向かって「死ね」と言ってくる。
なぜだか恋愛も仕事も自分の生活もうまくいかなくて、まるで神様からも「お前は死んだほうがいい」と言われているような気がしていた。
私は何故か、よく包丁を研いでいた。
けっこうこだわって研いでいた。
自分の顔が映るくらい細かく仕上げていた。
何度かその刃の先を自分の腹に当てたりしていた。
ただ、私は痛いのがいやだったので刺すことはなかった。
いつだったのか、覚えていない。
私は酒を飲み、精神薬と睡眠薬を大量に飲み、ドアノブにタオルを巻いてそこに頭を入れた。
長い時間をかけて酸欠状態になり、死ねるかと思っていたのだ。
だけど、そんなことで死ねるはずなんてない。
目が覚めて、外れたタオルを目にして、どうしようもない無だけが私をつつんでいた。
結局のところ、私は入院を機に立ち直った。
いまでは死のうなんてことは1ミリも考えていない。
自殺を図ろうとする者は、「視野が狭くなっている」と思う。
他に道はないと思い込んでいる。
あるいはどこかに道はあるのかもしれないけれど、そんなこと「どうでもいい」と思ってしまっている。
自殺をしようとしている人を、ひとりにしてはいけない。
どんどん自分の殻に閉じこもってしまい、暗闇の中に沈んでいってしまうからだ。
まわりの人が助けてあげるしかない。
中学生、高校生は多感なため、死にたがりの傾向が見られることがよくある。
いまの私から言えることは、「視野が狭すぎる」ということだ。
せいぜい、家庭や学校くらいしか「世界」を持っていない。
そしてその世界がすべてだと思い込んでいる。
辛い、苦しい、痛い、悲しい、孤独、自己嫌悪、憎しみ、アイデンティティの崩壊。
虐待やいじめは悲しいことだ。
私はいじめにあったことがないし、いじめを目にしたこともない、誰かをいじめたこともない。
なので、いじめられている子の気持ちは分かってあげられない。
でも、「いつまでもそれが続くわけじゃないよ」と言いたい。
いつまでも学校にいるわけじゃないし、家を出ることだってできる。
それから、自分の人生について考えてみてもいいんじゃないかなと思う。
『生きてさえいれば』という小説がある。
小坂流加さんの小説で、21万部も売れている。
作者は、38歳の若さで他界してしまっている。
病気だったと記憶している。
私はその小説も、『余命10年』も読んだけれど、例のごとく内容はほとんど覚えていない。
ただ、タイトルだけが頭に残っているのである。
私は、その「生きてさえいれば」という言葉が、すべての救済になるのではないかと思っている。
生きること、生き抜くこと、それが、すべての救いだ。
いまは辛いのかもしれないけれど、ずっとその辛さが続くわけではない。
乗り越えることも大切だが、乗り越えなくても、時間が過ぎていくことで、環境や状況が変わり、自分の考え方や世界観が変わることだってある。
死を選んでしまっては、そこですべてが終わってしまう。
もし、生きてさえいれば、何かが変わったのかもしれないのに。
とても残念だと私は思う。
ときどき、Twitterで悩みをぶちまけている若者のツイートを見かけることがある。
そういうとき、「どうしたの?」と聞いてみたり、「力にはなれないかもしれないけれど、心配はしている」というコメントを残したりしている。
私にできることは何もないが、彼、彼女にはまだ見えない答えがきっとどこかにあるのだ。
その答えが見えないために、ひどく苦しみ、悲しみに打ちひしがれているのだけれども、私は彼、彼女らが自ら「答え」を見つけていって欲しいと思う。
生きてさえいれば、いいのだ。
難しく考える必要なんてどこにもない。
自殺について考えるとき、太宰治が真っ先に浮かんでくる。
太宰治は、自殺未遂に失敗して死んだのだという冗談があるが、彼が何を考えていたのかは私にはまったく分からない。
けれど、いまも昔も、自殺を選ぶ人はいたのだということだけは分かる。
なんだか長くなりそうなのでそろそろまとめようと思う。
この世から、自殺がなくなることはないのかもしれない。
けれど私は、この世から自殺を無くしたいと願っている。
生きてさえいれば、いいのだ。
まだ、死ぬときではない。
そしてまた、あなたはひとりではないのだ。
きっとどこかに、誰かはいる。
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