『バカの壁』という本がある。
東京大学名誉教授、養老孟司さんの著書で、2003年に発行された。
400万部を越えるベストセラーとなり、同年の新語・流行語大賞、毎日出版文化賞特別賞を受賞。
私は例により、読んだが、ほとんど内容を覚えていない。
だけどその中にこんなようなことが書いてあった。
大学の講義で、出産に関するビデオを学生たちに見せたそうだ。
その後、レポートを提出させたのだが、レポートの内容が男女で大きく異なったそうだ。
男子学生は似通った内容のレポートで、文字数も少なかったのだが、女子学生は多様な内容のレポートで、文字数も多かったそうだ。
男にとって、出産というものは言ってしまえば「他人事」。ところが、女にとってはいずれ経験するだろう重要な事柄で、「自分事」だったのだ。
だから、レポートの内容が大きく異なった。
ウィキペディアによると、「バカの壁」とは、「人は知りたくないことに耳を貸さず情報を遮断すること」を意味する、とある。
私はその本を読んで以来、自分の中にある「バカの壁」を意識するようになった。
自分は、情報を遮断していないか。
自分は、考えることを止めていないか。
何か、新しいものの見方や考え方はないか。
そういったことを意識している。
だけど、新しいものの見方や新しい考え方というものはそう易々と見つかるものではない。
毎日私は、自分の壁を見つめている。
例えば今日、仕事が終わって家に帰るために車を運転しているとき、「今日のブログは何を書こう」と考えている。
何か面白いものはないだろうか。何か新しい考え方はないだろうか。何か発見はなかっただろうか。
そんなことを考えているけれど、何も見つからなかった。
どうしてだろう。
考えた末にたどり着いた答えは、「いまの私は平穏期」ということだった。
仕事で何か悩みがあるわけでもないし、帰る家がないわけでもない。
ごはんも食べられるし、夜はちゃんと寝られている。
健康体だし、体のどこも痛くない。下痢だってしていないし、便秘でもない。
返せない借金に苦しんでいるわけでもないし、喉から手が出るほどお金に困ってもいない。
つまり、「問題がない」わけだ。
だから私は、「何も考えることがない」のかも知れない。何も考えることがなければ、何の発見もない。
コロンブスの卵みたいな話だ。ニュートンの林檎みたいな話だ。
私はすっかりいまの生活に順応していて、何の疑問も持っていないのだ。
それはある意味では「良いこと」なのだと思う。
私の人生だって紆余曲折を経てきた。様々な問題を抱えていたし、悩んでいることもあった。苦しんできたこともあったし、挫折だって痛いほど味わってきている。体を壊し、精神病にも罹った。
それらの経験を踏まえて、私は私なりの「答え」を自分の中に持っているのだと思う。
それは、成長であり、自分の中の宝でもある。私のアイデンティティ(自己同一性)と言えるのかも知れない。
だけど私は、それで満足してはいないのだ。
「何かある」と、思っている。
私の中に何かある。のではない。私の「外」に、何かあるのだ。
まだ見えないその「何か」を、私は見たいのだ。
なぜなら私は作家だからだ。
ちゃんとTwitterのプロフィールページにも書いてある。「作家」なのだ。
作家は、自分の手によって何か新しいものを創り出すのではない。
自分の外にあるものを吸収して、自分の中で変換し、新しいものを「作品」として世に送り出していくのだ。
そしてときに「神が降りる」。
メロディなんかがそうだ。もともとこの世界にあるメロディを発見し、人々に分かる形で世の中に発表していく。
それは、創作ではなく、発見なのだ。
そう、この世界にはまだ人々が見たことも聞いたこともない「何か」があるのだ。
私はそれを発見したいのだ。
重複した。
と、いうわけで、何を長々と語っているのかというと、ただの私のスタンスについて語っていたのだ。
ネタがないと、こういうことになる。
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