仕事が始まる前に準社員のえりさんから話があった。
「ハンディ覚えた?」
レストランでアルバイトをはじめて19日目。
僕はいまオーダーを受ける練習をしている。
昨日初めて「ハンディ」というポジションを任されて今日で2回目。
いままでは先輩にそばに付いてもらっていたけれど、昨日から僕一人で行くということが課せられている。
「まだ完璧ではないですけど、難しくないオーダーでしたら大丈夫です」
と、不安な気持ちは隠して前向きな発言をした。
「ランチなら大丈夫でしょ」
苦笑いする。
「金曜日は暇だし、大丈夫大丈夫」とえりさんは言っていたが、今日は木曜日である。もちろんそんなツッコミは入れなかった。
そんなわけで、今日もプレッシャーだらけのバイトが始まった。
昨日は鬼のように忙しかったので、今日は出来れば穏やかに過ごしたい。
ご予約は4件。
出だしはゆっくりとスタートした。
積極的にオーダーを受けに行く。
特に難しいご注文はなく、なんとかこなしていった。
慌ただしくなったのはいつごろだったのだろうか、分からない。
それでも積極的にオーダーを受けに行った。
一応のところ、問題はない。
だけど、オーダーではないところでいろいろと言われてしまった。
怒られたわけではないけれど、なんとなくしょぼんとしてしまう(´・ω・`)
それにしても晴美さんはどうしていつも怒っているような顔をしているのだろう。話しかけにくい。
そして、デシャップではなかったので手が空いたときにどうしたら良いのか分からなかった。
とりあえず店内を見て回って下げるお皿があったら下げてきたり、お冷のおかわりがないかを見て回ったりしていたが、何もなくなるときがある。
そんなとき、デシャップの片付けが目につくので「やったほうが良いのでは」と思うが、今日のデシャップは晴美さんなのだ。
いままでの経験上、晴美さんがやっていることに手を出そうとすると「こっちはいいから自分のことやって」と言われる。
だからおそらくデシャップのことをやったら何か言われるので何もしなかった。
何もしなかったが、立っていたら「つっ立ってるなら中片付けて」と言われる恐れもあった。
僕は困っていた。
ぎりぎりのところで新規のお客さんがやってきてくれたりオーダーがあったり料理の提供があったりレジがあったりバッシングがあったり下げるお皿があったのでなんとか時間を過ごすことが出来た。
デシャップには手を出さなかったが、洗い場には入った。
2時が過ぎて、店内も落ち着いてきた。
「晴美さん休憩行かないかなー」と願っていたが、その気配はなかった。
「しょうちゃんトマトソース系のものを持っていくときハバネロソースが必要かどうか聞いてないの?」
「聞いてないです」と、いうか、そんなこと教わってもない。ピザは聞いているけれど。
「聞いて」
「はい」
と、まあこんな感じで言われる。
なんだかまるで「そんなことも分からないの?」「頭悪いの?」「自分で考えれば分かるようなことなのに」とでも言われているような気分だった。
暇なときは3時に上がれる。
が、3時を過ぎても声はかからなかった。
その代わり、3時になってようやく晴美さんが休憩に入った。
ラストオーダーも終わったし、あとは片付けるだけだ。
ドリンク場にはマネージャー。ホールは僕ひとり。
心配になるようなことはなかったので地味に片付けをしていった。
上がれたのは3時45分である。
休憩に入っていたえりさんが降りてくるのであとは大丈夫そうだった。
「お疲れ様です」と言って上がる。
控え室には、晴美さんが居た。
おしゃべりなんか出来るわけがない。僕は黙って帰り支度をして煙草を1本吸った。
煙草を吸っているあいだに晴美さんは下に降りていったので控え室は誰も居なくなった。
煙草をちゃんと消しているか確認してから下に降りた。
挨拶をして、お店を出る。
今日の心配事はこれでなくなったのでほっとする。
あとは、「もみ」の仕事だけだ。
シフトは5時からだったので少しコンビニで休憩をした。
4時半頃に出勤をする。
青木さんとフクさんが居た。
予約表を見るとどうやら暇そうだった。
とりあえず着替えて腰を下ろした。
フリー出勤なので、5時半になってもご予約が入らなかったら帰れる。
ご予約は入らなかった。
挨拶をして、帰る。
これで、ひとまず仕事は終わった。明日はお休み。
コンビニに向かった。
今日は、笹原さんが居る。(はず)。
駐車場に車が多く止まっていたので一服することにした。
「邪魔しないで下さい」と心の中で皆様にお願いした。が、そんなこと受け入れてもらえるはずはない。
まあいいやと思って店内に入った。
声で分かる。
とりあえずトイレに向かいながら店内の状況を把握した。
少しお客さんが多い。
トイレで用を足しながら「まあ大丈夫だ」と自分に言い聞かす。
今日は特にアクションを起こすつもりはない。
今日はただ、「こんばんは」と言うだけ。それでいい。
先日チョコレートをあげたばかりなので、また何かしたら少しくどいだろう。
がっつき過ぎは良くない。
鏡を見て髪の毛が乱れていないか確認する。メガネは曇っていない。
トイレから出て、いつも買う100円の缶コーヒーを取ってレジに向かった。
笹原さんが立っていてくれたら良かったのだがレジには誰も居なかった。
見てみると、笹原さんは奥で揚げ物か何かを作っている。
そして、レジの近くではおばちゃんが商品整理をしていた。
レジのところでちょっと待ってみた、が、気づいてもらっていない。
迷ったが、「すみませーん」と声をかけてみた。
距離はどちらも近かったのでどちらがやってきてもおかしくない状況だった。
だがおばちゃんは空気を読んでくれていた(のだったらありがたい)。
「ありがとうございます」と言って笹原さんがやってきてくれた。
明るい色の髪の毛が、揺れてやってくる。
「こんばんは」と言ってみた。
「こんばんは」と帰ってくる。
先日、初めて「こんにちは」と言ったときは少し驚いていた彼女だったが、今日はごく自然に挨拶を返してくれていた。
挨拶をすることで、視線が合うのでちょっと嬉しい。可愛い。
「あと、146番ください」
「はい」
煙草を取ってくれて「こちらでよろしいでしょうか」と確認される。「はい」と答える。
このパターンでは、ポイントは付かない。
「660円です」
お財布の中から千円札を取り出し、小銭入れも見てみた。60円あった。1060円をトレーに置く。
「よろしいですか?」
「はい」
「400円のお返しです」
「はい」
お釣りを受け取り、缶コーヒーと煙草を手に取る。
最後に、笹原さんの顔を見る。
「ありがとうございます」
ちゃんと、目を合わせてくれる。微笑んでくれたように僕には見えた。可愛い。
今日は、これだけで良い。
次に会えるのは土曜日だ。
その次が日曜日。
土曜日と日曜日の作戦はもう練ってある。
それにしても、本当に可愛い。
車に乗り込んで缶コーヒーを二口飲む。
仕事終わりに笹原さんの顔を見れるなんて幸せだ。毎日見たい。
いつものように、音楽をかけながら家に帰った。
僕はいま、土に慎重に水を与えているようなものだ。
芽が出るように、慎重に。
ここが肝心である。
芽、出て欲しいな。
そしたらその芽を大切に育てていく。
いずれその芽が大きくなって、果実が実れば、僕は最高に幸せになれる。
出来ればその果実を、笹原さんとふたりで採りたい。
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