無機質であることの有用性について

雑文

 先日のこと、わたしはある女の子とセックスをしました。

 その後わたしの精神は崩壊していきました。

 セックスそのものに「害」があるとか、そういうことを言いたいわけではなく、生身の人間と接することにはリスクが生じると言いたいわけである。

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 人間という生き物は、宇宙よりも複雑で混沌としています。

 真正面からぶつかり、まじめに受け止めようとしたら、自身が壊れてしまいます。

 わたしは、「他人」のことを知りたいと思っていました。

 そしてまた、「自分」のことも知ってほしいと思っていました。

 そこが、「病」のはじまりなのではないかなと、わたしは思いました。

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 わたしは今日、ショッピングモール内を徘徊していました。

 服装はシャツにスラックスに薄手のパーカー。

 ただ、どこかうつろな、そしてまたどこかにらんでいるような顔で、うろうろしていました。

 ショッピングモールをあっちこっち歩きながら、わたしは、人間を見ていました。

「よくみんな、自我を保っていられるな」と、わたしは思っていました。

 わたしの自我、あるいは自己同一性は崩壊していました。

 わたしがわたしであることの「軸」のようなものがすっぽりなくなっていたのです。

 はたから見れば不審者のようでした。

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 不思議なことです。

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 わたしは以前、統合失調症で精神科専門の病院に入院していました。

 それも、2年間という短くはない間。

 その後、退院し、現在通院しています。

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 精神疾患は、「病気」とされていますが、それはどこか、「外部要因」ではないような気がします。

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 風邪にしろ、コロナにしろ、ウイルス感染にしろ、そういったものは「外部」に要因があるものですが、「精神疾患」というものはどこか脳内とか、遺伝子レベルの話になるのではないかなと思いました。

 たとえばパソコンは、「なぜわたしはパソコンなのだ」なんてことを考えません。

 自我が確立された人間たちも、「なぜわたしはわたしなんだ」なんて、そんなには考えないでしょう。(たまには考えるかもしれない)。

 わたしは、

 常に、

 わたしがわたしであることの不確実性におびえていて、精神が崩壊する危険性のある「吊り橋」をわたっているような人生を歩んでいます。

 もしかしたらわたしは「学のない哲学者」なのかもしれない。

 わたしは哲学というものがあまり好きではないし、意味がないと思っている人間ですが、わたし自身が、どこか「哲学」じみた世界観を持っています。

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 話がテーマからそれました。

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「無機質の有用性について」です。

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 無機質。「命のないもの」

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 世は、「命」を大切にしています。

 無機質なものは、しょせん「もの」でしかないと認識されています。

 わたしは、そんな無価値なような「もの」に、「命を正常化させる働き」があるのではないかと仮説を立てました。

 その仮説を実証するような実験とか、めんどくさいのでしませんが、

 無機質なものが、ときに心の救いになるということは事実なのではないでしょうか。

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 無機質なもののよいところは、「ただのもの」であることです。

 ただの「もの」なので、何も言ってこないし、何も攻めてこない。

 害がないのです。

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 その、害のないものに触れることによって、われわれ有機物が、なにか、心の平穏を取り戻すことができるのではないかなと思いました。

 なお、写真はイメージです。

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 考えることに疲れたときは、「何も考えない」のがいい。

 何も考えないために、何か簡単な「作業」だけをしたり、「無」に触れるといい。

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 うまく説明できないですが、

 そういうことです。

 悩んで、悩んで、疲れてしまった人。

 無機物に触れると、いいかもしれませんね。

 てきとーな見解ですが。

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