悲しみについて
こんにちは。イラストレーターの「いおり」です。
今わたしは代表の勝馬さんの部屋にいます。
勝馬さんはどうやら悲しいことがあったようで、さっきから膝を抱えてずっと床を見ています。
わたしは「どうしたんですか?」とか聞いてみるけど、あまり深くは聞かないでいる。
何も聞かずに黙ってお茶を点てました。
最近わたし、お茶を始めたんです。
その(素人が)点てたお茶を勝馬さんの前に差し出しました。
勝馬さんはぼんやりと茶器を見つめてゆっくりとお茶を飲みました。
ふうと息を深く吐き、お茶を喉に流している。おいしいともまずいとも何も言わないのでわたしは勝馬さんを放っておくことにしました。
世界は穏やかです。昼下がりに自分の縄張りを散歩するネコみたいに世界は穏やかです。
せっかくなんで、事務所のパソコンを使ってブログを書くことにしました。
適当に書くので、テーマとかないです笑
苦しみ悲しみ
四苦八苦、ん? 四諦? じゃなかった、よく覚えていないけれど仏教の考えでは「生は苦」だとされている。
おじさんはよく言う。「生きてりゃいいことあるよ」と。
でもお釈迦様は違う。「生きることは苦だよ」と。
わたしは最近仏教のことが好きになった。
TikTokで「現代のお坊さん」のふるたにさん(https://lite.tiktok.com/t/ZS62HVLUC/)の動画をよく見る。
本を読んで、空海さんの言葉に救われたりもする。
この間は最近知り合った住職さんを巻き込んで「坐禅会」を企画した。
その住職さんは伊豆の修善寺にある有名なお寺「修禅寺」の元住職さん。
ずっと坐禅をしてきた方。現在は隠居をしていて地元の小さなお寺にいる。
犬の世話をしたり、ヤギの世話をしていたりする。変わったお坊さんだ。
住職さんに坐禅の仕方を教わった。
坐禅。ただ座るだけ。
元は達磨さんとか道元さんの話になるんだけど坐禅とはようは「ただ座るだけ」のこと。
そのなかで、「自分を無くしていく」ことをする。
いろんなことを「無くしていく」。
色即是空、空即是色。
全部ぜんぶ、「そんなものは無い」って。
住職さんは「元は天とひとつだったんだ。なのに自意識、『私』が生まれてきてしまったために苦しみやら悲しみやらが生まれちゃったんだ」と言ったようなことを話した。
曹洞宗のお坊さんなのにキリスト教の聖書の話を持ち出して、「知恵」とか「自我」について語ってくれた。
そして住職さんはわたしに向かって「あなたは空だ」と言った。
わたしは、「空」。
そしてまた、「それぞれの『仏』を見つけるのが人生だ」とも言った。
そういったことを説明するのはとても難しいけれど、わたしはその住職さんのお話が好きだったし、仏教の考え方も好きになった。
勝馬さんはきっと自分の中で深い悲しみを生み出してしまっているのだ、とわたしは思う。
宮本武蔵と仏教の話
最近、『バガボンド』という漫画を読み返した。
井上雄彦さんといえば『スラムダンク』である。
有名な漫画家だ。
絵がめっちゃ上手い。
Twitterかなにかで井上先生がバガボンドを書くときに「墨」を使っているということを知った。
普通漫画はペンとインクで書く。(最近はデジタルも)
それをあえて「墨」で描くのだそうだ。
漫画を見てみると、確かに、「血しぶき」とかが墨で書かれているように思う。
回想シーンなんかが薄い墨で描かれていたりもするのかな?
まあいいや。
『バガボンド』は、わたしが大学生の時に読んだ。
それを、大人になった私が今また読み返したのである。
あのときは「武蔵と小次郎の戦いまだかなー」くらいにしか考えていなかったけれど、仏教のことを知った今は『バガボンド』の話がぐっとくる。
ほとんど仏教の話だとも思った。
残念ながら『バガボンド』は休載中だけど井上先生にはぜひ続きを書いてほしいとわたしは思っている。
仏教を知ったことで『バガボンド』の深みが増すなんて不思議な縁の話だけど、話はそれだけじゃない。
わたしは剣を握ることになったのだ。
わたしは変わりたい
宮本武蔵といえば剣の世界の一流で、「天下無双」の人だ。
たまたまだったのだけど、わたしは最近「居合道」を始めた。日本刀を扱う武道である。
ついでに剣道も始めようと思っている。ほんとうに、たまたま。
わたしは最近「変わろう」としている。
長い髪を短く切って、仏教のことを知って、お茶を点てるようになり、日本刀を持って居合をして竹刀を持って何かと戦おうとしている。あと、坐禅を組んでいる。
一年前では考えられなかった「今」だ。
「今、この瞬間、それだけだ」と、例の坐禅の和尚さんも言っていた。
わたしは今までの人生、失敗ばかりだったけど、後悔はしていない。
だけど、「このままじゃいけない」と思っている。
どうして居合を始めたり、お茶を点てたり、神社仏閣へ行くようになったのか。
理由はわからない。
だけど、「そうなった」。
因と縁。
キリスト教なら「神のお導き」であるし、仏教なら「仏様の教え」なのかもしれない。
わたしは、いま、変わろうとしている。
わたしは、新しい私に、変わりたい。
蓮の花
蓮の花は、汚い水でしか綺麗な花を咲かせないそうだ。
そのためか、仏教の象徴的な花でもある。
たしかお釈迦様の仏像は蓮の花の上に座っていたように思う。
わたしの人生は、「清廉潔白」ではない。
とっても汚いし、愚かだし、失敗ばかりしている。
立派ではない。
ときどき「死にたい」と思ったり、「生きててごめんなさい」と思ったりする。
だけど、仏さまは私を見捨てない。
坐禅の和尚さんが言った。「あなたの中にも、仏はいる」と。
こんなわたしの中にも仏様はいらっしゃるそうだ。
いらっしゃるというより、「もとはひとつ」だったのに、いつのまにか「私」が出てきて、あれこれ言いだしてしまったのだ。
ふと私は勝馬さんを見た。
勝馬さんはお茶を飲んだあとにまた仕事を始めた。
忙しい人だ。
失敗ばかりしていて、汚い心を持っていて、ときどき「生きていてごめんなさい」って思っているわたしでさえ、ひとつの「花」を咲かせれるだろうか。
花、花は、なんであんなに綺麗なのだろう。
色、形、匂い、それら、「人間」が作ったものではないだろう?(勾配はしたかもしれないけど)
神様は、きっといる。
キリスト教でイメージするような全能の「 」ではなく、世の中のすべての理。
世の中は混沌だ。それを「空」と言ったり「道(タオ)」と言ったりする(のかな?)
だけど、世の中はきっと美しくて、正しくて、「ひとつ」なのだ。
勝馬さん元気だしてー!
つらいことも、悲しいことも、生きていればある。
わたしだってこのまえ母が交通事故を起こしてしまった。
幸い怪我はなかったけれど、大事故だった。新車だった車も全損だ。
だけど、「生きていてくれてよかった」と、わたしは思った。
親が死んだらわたしは悲しく思う。
だからきっと、「わたしが死んだら」親は悲しむだろう。
だから、死なないでおく。
まとめ
ふと書いてみたブログ、どうでしたか? 何かコメントなど頂けると嬉しいです。励みになります。
勝馬さんにしろ、りょうきちさんにしろ、わたしにしろ、いつか「骨になる」。
土にかえる。
悲しいことも、つらいことも、あるよね。
だけど、前を向いてほしい。
みんなみんないずれは死ぬし、土に帰る。
ぜんぶは「空」なんなんだよ。
そういう、仏教的なことを言って、今日は終わりにする。
今年もあとわずかだね。
来年、いい年になると、いいね。
卍。
※アイキャッチ画像はUnsplashのMarina Logvinが撮影した写真です。
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