「すべて」という漢字をどちらにしようかずっと悩んでいた。
国語辞典で調べると、「凡て」と書かれている。
でも、一般的には、「全て」と書くだろう。漢字の意味合いからしてもそのほうが分かりやすい。
けれど、国語辞典では「凡て」だった。(表記〈全て〉とも書く、と書かれている)。
語源としては「総ての意」らしい。
凡て、全て、総て……。
悩んだ挙句、ひらがなで「すべて」と書くことにした。
最近敢えて漢字をひらがなで書くようにしている。
「凡」、「全」を漢字辞典で調べてみるとこう書かれている。
凡、ボン、はん、およそ、すべて
字義:すべて。まとめて。みな。なみの。普通の。ありふれた。およそ。おおよそ。だいたい。
解字:象形。甲骨文は、風をはらむ帆の形で、風を受ける帆の意味を直接には表したが、風があまねく吹きわたるさまから転じて、「すべて、おしなべて」の意味を表す。
全、ゼン、まったく、まっとうする、すべて
字義:まったく、すべて。みな。ほんとうに。じつに。まったし。かけたところがない。そろっている。まっとうする。欠けたところなくおこなう。
解字:会意。もと、入+工。入は、いり口の形。工は、工具の形。入口だけからしか中に入れない倉庫に、工具をたいせつにしまうさまから「たもつ・まっとうする」の意味を表す。
だ、そうだが、「なんのこっちゃ」である。
すべて。私が言いたいのは、「森羅万象」という意味のすべてではなく、自分がいま見ているもの、感じているもの、考えているもの、持っているもの、などの、「すべて」だ。
どうしてそんなことを考えていたのかというと、「結局のところ『すべて』だと思っていることは『すべてではない』な」ということだ。
最近私はあることで悩んでいるが、それは1年前は違っていた。
1年前は違うことで悩んでいたし、いま持っている悩みなんて想像もしていなかった。
5年前も、10年前も、同じである。
なので、いま抱えている悩みは、1年後は違うものになっているだろう。
だから悩むことは無駄だ。
と言いたいわけではない。
大いに悩むべきだ。
ただ、「絶望」はしなくていい、と私は言いたい。
Twitterで、たまに若者の悩みを見ることがある。
なんだか絶望しているようだが、そこですべてを決めてしまうには早すぎると思う。
10代20代で、人生を悟られてしまっては困る。
どうか、いまは見えなくても、希望は必ずどこかにあると、信じていてほしい。
振り返って見てみれば、私は多くの「選択」をしてきた。
いまだったら、そんなチョイスはしないな、と思うことは往々にしてある。
高校受験、大学受験、進路、夢、就職、交際相手、などなど。
いまの私だったら、別の道を選択するだろう。
でも、過去の私が選択してきたその道を否定するつもりはない。
後悔もしていない。
いまがあるのは、その過去があったからだ。
そのすべてを大切にしたい。
私はいまの悩みに対して、全力で取り組んでいこうと思う。
たぶんきっと、未来の私からしたら、「そんなチョイスはしない」と思われるかもしれない。
でもきっと後悔もしないだろう。
なので、絶望はせずに、見えない希望を信じて、「選択」をしていこうと思う。
少なからず、いまの私はいままでの私のすべてなのだから。
「すべてではない」「すべて」を、私は持っている。
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