ダ・ヴィンチの罠#3『指芝居』前編

父ブログ翻訳

はじめに

 ただいまわたしの父は、ブログを書いています。

 レオナルド・ダ・ヴィンチの「罠」を解明しよう、という大がかりなことをしています。

 ただでさえ難解な問題なのですが、書いているブログも難解で意味がよくわからなかったりします。

 せっかく書いているのに、「伝わらない」のはもったいない。

 そこで、そのブログのお手伝いをしているわたくしりょうきちこと勝馬将太が「翻訳」してみることにしました。

 なるべく読みやすく翻訳していこうと思いますので、お付き合いいただきたい。

 今回は第3話、『指芝居』です。

 こちらが原文です↓。

ダ・ヴィンチの罠 指芝居 - 透明人間たちのひとりごと
「手は口ほどにものを言う」舞台(壁画)の上での指先の演技が姦(かしま)しいのも『最期の晩餐』の特徴ですが…西洋美術、それ...

 ここからが、わたしが訳していった文章です。(加筆、修正を施しています)

勝馬訳『指芝居』前編1

「手は口ほどにものを言う」

 西洋美術、それもキリスト教美術の中で、「手」の表情はとても重要視されています。

 それは、旧約聖書の中で、「神」の隠喩として「神の手」があるからです。

拾い画です。アニメ『Re:ゼロから始める異世界生活』のペテルギウス・ロマネコンティ

 絵画を見れば、その手の表情のひとつひとつに隠された「意味」があることに気づきます。

 それらを読み解くことができれば、その作品の「本質」が浮かび上がってくるのです。

 たとえばこの絵。

 ルーブル美術館版の『岩窟の聖母』ですが、この「指」は何を語っているのでしょう。

 もう少し、引きます。

 3つ、手が見えますね。(意味のありそうな手が)

 上からかざすように広げている手、

 何かを指さしている手、

 ピースサインのような、手。

 さらに引いてみましょう。

 上からかざしていた手は、「聖母マリア様」の左手。

 そして、

「ねえ、見てみて、あっちよ」と言わんばかりのこの手は、

 大天使ウリエル(またはガブリエル)の手。(流し目が意味深ですね)

 そしてこの子は何かを「祝福」しているのでしょうか。

 この絵の登場人物は、

 聖母マリア
 大天使ウリエル
 幼子のイエス
 幼子のヨハネ

 ですが、少し色彩を落としてみましょうか。

 左側で拝む姿の幼子と、右側で祝福のポーズをとる幼子、

 どちらが「イエス」でどちらが「ヨハネ」でしょう。

 これだけでは、判別するのは難しい。

 実はその、「判別するのが難しい」ということが、ダヴィンチの罠の一つであります。

勝馬訳『指芝居』前編2

 他の聖母子画では、ヨハネを描く際にはアトリビュートが添えられています。

 つまり、象徴する持ち物として、ヨハネの場合は

 らくだの毛皮(羊の衣)
 杖状の細長い十字架(葦の十字架)

 が、持たされています。

 それを見ることで、一目で「あ、この人が洗礼者ヨハネである」とわかる仕組みになっています。

 こちらの絵を見てください。

 先ほどとほとんど同じような絵ですが、こちらはルーブル版ではなくて、ロンドン・ナショナルギャラリー版のものです。

 実は、『岩窟の聖母』という絵画は、パリ・ルーブル版と、ロンドン・ナショナルギャラリー版が存在するのです。

 なぜ2枚あるのかという理由はここでは省きます。(詳しく知りたいかたは父ブログの本文をご覧ください)

 簡単に言うと、製作者と(依頼主)教会との意見の食い違いです。

 二つの絵を見比べてください。

 大きな違いはアトリビュートです。

 つまり、その人をキャラ付けするための小道具を持たせているか持たせていないのか、の違いです。

 先ほどあげたヨハネのアトリビュートを参考にみると、ナショナルギャラリー版でははっきりと左側の幼子が「ヨハネ」だとわかります。

 ところが、ルーブル版では、それが、わかりません。

 それが、この人が指をさしている理由です。

 つまり、「世間的にはこの子がヨハネとされているけれど、ほんとうにそうかしら」「ちょっと見てみてよ」

 ということです。

 この手と、この不敵な表情。

 そこが、教会の反感を買い、もう一枚の絵ができた理由でもあります。

 言葉を変えるならば、

「あなた方がイエスだと思っている人は、ほんとうはヨハネなのかもしれないよ」

 と伝えているのです。

まとめ

 こうやってみると、

 ね、

 指に深い意味が込められているのがわかるでしょう?

 そうなってくると、この絵も、トマスさんの絵も気になってきますね。

 時間があれば、『指芝居』の後編を展開しますが、時間がなければ「次」に行きます。

 ここまで読んでくれてありがとう。

 またね☆

コメント

  1. 父です。またの名を〝透明人間2号〟と称していますが、透明人間たちも、また、私自身の分身であり、彼らと私は「ひとりごと」をつぶやいています。

    なるほど、わかりやすい翻訳であるが、少々、もの足りない気がしないでもない。

    その2の展開があるなら、期待したいが、「次」の#4が待ち遠しいのも、事実である!

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