ドルチェ

雑文

 ドルチェ(dolce):【伊】甘い、甘美な、優しい、柔らかい、スイーツ、デザート

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 イタリアンレストランでアルバイトを始めて16日目の今日は土曜日。

 土日の営業は平日のランチとは違い、グランドメニューになる。

 そして、週末なので、比較的忙しい。

 まだ土日の営業に慣れていない僕は若干気が重かった。

 お店に入る前に神様に祈る。いつもやっていることだ。

「どうか無事に過ごせますように」
「どうか何も言われませんように」
「どうか忙しくなりませんように」

 控え室で準備をする。制服は着て来ているので腰にサロンを巻くだけだ。

 あとはポケットにメモ帳とボールペン2本とハンコ付きのボールペンを1本差し込む。

 煙草を吸い、コンディションを整える。

 時間になり、一階に下りて勤怠を押す。

 手を洗ってポジション表を確認した。

「そんなことってある?」と僕は思った。

 重かった気持ちの80%が消えてなくなった。

 晴美さんが居ない。

 晴美さんとは、厳しい先輩で、いままでまあ怒られた。一緒にかぶっていて何も言われなかった日はほとんどない。

 出来れば一緒に入りたくはないが、出勤日が多いのでどうしてもかぶってしまう。

 なので最近は居るものと思って職場に挑むようにしている。

 それが、今日は居ない。

 肩が軽くなったのではないかと思った。

 そのうえ、アイさんも石上さんも居る。心強い。

 ご予約は4件あった。多くはないが、少なくもない。

 11時にお店はオープンする。

 穏やかなスタートだった。

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 僕のポジションはデシャップで、料理の提供とパントリーの片付けをメインで行う。

 レジがあればレジに入るし、お冷を持っていくこともある。バッシングもする。

 デシャップでの作業は概ね慣れてきていて、いまはご注文を受ける練習をしている。

 準社員のえりさんがアイさんや石上さんに向かって「しょうちゃんのオーダー見てやって」と言ってくれた。

 まだ僕は、先輩がそばに付いていてくれないと、オーダーを受けることが出来ない。

 オープンから12時くらいのあいだは呼び鈴がなると僕がご注文を受けてアイさんや石上さんがチェックをしてくれた。

 ご注文を受けている際にフォローにも入ってくれた。

 穏やかな営業だったので安心して練習をすることが出来たが、慣れていない作業のため僕の頭はフル回転だった。

 テイクアウトのピザの伝票に「後」マークを付けたがそれは「声(かけ)」マークの方が良いとえりさんから指摘されたのを除いて、概ね問題なくオーダーを受けていた。

 12時を越えたあたりから店内は少し慌ただしくなる。

 滅茶苦茶忙しいわけではなかったが僕がオーダーを取りに行くことは出来なくなった。

 デシャップの仕事に専念する。

 平和だ、と、思っていた。

 気負っていた分、忙しくはない状態はとてもやりやすかった。心地よいとさえ思った。

 なにより、晴美さんが居ないので気持ちが凄く楽だった。

 今日は、時計を見る余裕があった。

 その度に僕は「あと○時間」「あと○分」と確認して自分を励ましていた。

 午後の2時が過ぎると、店内も落ち着いてきていた。

 それでもそこそこ片付けなければならないシルバーやお皿が溜まっていたのでそれを片付けていった。

 再び僕の練習が始まる。

 そんなことをしているうちに、時間は過ぎた。

 シフトは4時までだったが、3時に上がることが出来た。

 ほっとする。

 今日と明日が今月一番の難所なのだ。そのうちの一日を終えることが出来たのだ。

 挨拶をして2階の控え室へ向かった。

 帰り支度をして、煙草を吸った。

 少しマネージャーと雑談をする。

 煙草を吸い終えると、お店を出た。まだ外は明るい。

「やったー」軽くなった気持ちで車に乗りこむ。

 そして、コンビニに向かった。

 今日は、土曜日で、早い時間なので笹原さんは居ない。

 最近僕はそのコンビニで働く笹原さんという女の子のことばかり考えている。

 どうにかして距離を縮めたいと思っているが、「距離を縮めようとするのは良くない」と田中泰信さんは言う。

 著書『会って、話すこと。』の中でそんな記述があった気がする。

 そしてまた、「好きだ」とも言ってはいけないとも書いてあった。

 難しいな、と僕は思う。だが、「会って、話したい」。

 とりあえず今日は居ないのでただ缶コーヒーを買って帰るだけだ。

 駐車場に止まっている車の数も気にしない。

 コンビニに入り、トイレを済ませていつもの缶コーヒーを手にした。

 レジは少し混んでいた。並ぶ。すると、視界に明るい色の髪の毛が過ぎった。

 居るぅ!

 顔を確認しなくても、一瞬で分かる。

 予想もしない展開だった。

 だけど笹原さんは奥へ引っ込んでしまった。

 レジにはおばさんが一人立っていた。左側のレジ。そこでいまお会計がされていて、そのあとに一人待っている。

 その後ろに僕は立っていた。

 冷静に僕は計算をしていた。

 この状態だと、右側のレジに笹原さんが出てくる可能性がある。だが、僕はもう並んでしまっている。

 いまやっているお会計はもうすぐ終わりそうだった。そしてそのあとに一人待っている。

 いま笹原さんが出てきたらその待っている一人のお会計をすることになるだろうから僕は必然的に「おばさん」に当たる。

 あれこれ計算をしていたけれど、「ま、いいや」と思った。

 居ないと思っていたので、別に笹原さんでなくても構わない。

 いや、ほんとは笹原さんにしてもらいたい。

 でも、ここは敢えて他の人のレジに入ることも大切なのではないかと思った。

 正直に言うと、僕は笹原さんがレジに入るのを狙って行ってるので、その「下心」を見透かされて、「キモいわ」と思われてしまっては終わりなのである。

 なので今日は、「別の人にも入っている姿」を見せることによって「キモいわ」を回避する作戦を立てた。

 自然さが大事なのである。

 そんなことを考えているうちにお会計は終わって列は進んだ。

 前に進み、待った。

「お待ちのお客様どうぞー」という声が奥から聞こえた。

 明るい色の髪の毛が左から右へと移っていく。

 その声に従い、僕は右側のレジに向かった。缶コーヒーを置く。

「あと、」と言って煙草の棚を見て、「112番下さい」と続けた。

 笹原さんの目を見ると、桃色のアイシャドウが塗られていた。

 そのピンクが、僕の胸を射抜いた。

 普段、そんな色をつけていない。

 そのピンクは、なんだかほんのりと艶かしく、そしてまた切なくもあった。

 可愛い、と思うと同時に、こんなに可愛いんだから、きっと彼氏も居て、もしかしたらその彼氏のために塗られたのかもしれなかった。

 ダブルベッド、バスローブ、見つめてくる瞳と、桃色の上まぶた。

 そんな情景を浮かべながら、愛しさと苦しさが同時にこみ上げてくる。

 なんでこんなに可愛いんだろう。

 お会計は660円で、財布から千円札を出せば済む話だったが、少しでも時間を延ばしたかった僕は小銭入れをチェックしてから「これで」と言う。

 たった2秒しか稼げなかった。

 今日は特に何も言わないつもりでいた。

 何か声を掛けたい気持ちはあるが、そのつもりでもなかったし、人が多かった。

 後ろに待っている人は居なかったが、反対側のレジにはおばさんが居るし、何か会話をしようとするのは不自然だった。

 淡々とお会計をし、淡々とお釣りを受け取った。

 接客業をしていると、他の人の接客を見る癖がある。

 その癖と、あと、「ずっと見ていたい」という気持ちもあって、最後に笹原さんの顔を見た。

 天使かよ。と思った。

 笹原さんは微笑んでくれた。

 その微笑みは本当に天使だった。

 くっきりとした二重の双眸に桃色のまぶた。

 明るい髪と、マスクの隙間から見えるほんのり赤くなった頬。

 なんでそんなに可愛いんだよ。

 ただ単に僕がそう見えただけなのかもしれなかったが、確かに笹原さんは微笑んでくれていた。

 ずっと見ていたい。そんな思いを胸に抱きながら会釈をしてその場を去った。

 帰りの車の中、「あー」と僕は思っていた。

 握っているハンドルをとんとんと叩く。

 アイシャドウ、素直に褒めればよかったな、なんてことを思っていた。

 それは会話のきっかけにもなったし、「ただのお客さん」から抜け出す一歩でもあった。

 だけど、後悔しても仕方がないし、人も多かったので仕方がない。

 明日、また、会えるはず。

 明日は、計画通り作戦を実行する。

 それが出来れば花丸だ。

 今日レストランでお客様のところに持っていったドルチェのことを思い出していた。

 美味しそうなティラミスだった。

 ドルチェとは、デザートのことだけど、イタリアでは女性を褒める際に使われる言葉らしい。

 今日の笹原さんは、僕にとってのドルチェだった。

 甘く、優しく、柔らかい。

 今度会ったら言おう。

「君は僕のドルチェだよ」

 たぶんきっと、「キモいわ」と言われるだろう。

 

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