2022年の2月20日。2が、いっぱいだ。
朝起きて、茶の間のカーテンを開ける。
仏壇の前に立ち、線香をあげて手を合わせた。
天国に居るおじいちゃんにお願いをした。
朝ごはんを食べて、コンディションを整えるためにもう一度布団に入る。
時間が来たら支度をして家を出る。
今日は、失敗は許されない大事な日だった。
前に言っていた「大きな作戦」を決行するのである。
もちろん笹原さんのことだ。
今日、笹原さんに、手紙を渡す。それが、大きな作戦なのである。
だけどその前に僕は仕事をしなければならなかった。
日曜日。まだ、慣れていない日曜日。
お店に行く前にはいつもコンビニで休憩をしている。
いつもは缶コーヒーだけなのだが、今日はリポビタンDを買った。
いくつかある種類の中で「リポビタンDfine」というのを買った。
「fine」という言葉に験(げん)を担ぎたかったのである。「験を担ぐ」という言葉の意味とは違うが何にでも縋りたいのである。
時間が来て、向かった。
いつもなら、お店に入る前に神様にお願いするのだが今日はしなかった。
本当に叶えて欲しいお願いは他にあるからだ。お店が忙しくなろうが怒られようが無事ではなかろうが今日は構わなかった。
控え室で、マネージャーから「今日は人が少ないからオーダーは積極的に行かなくていいよ」と言われた。
少し安心する。つまりデシャップだ。不慣れなハンディポジションより良い。
勤怠を押して、仕事が始まる。チーフから「今日は人が少ないから頑張ってね」とも言われた。
石さんが病欠なことは知っている。しょうがない。
だけど、ポジション表を見てびっくりした。
4人しか居ない!
いつもなら日曜は6人体制なのに、4人しか居なかった。
マネージャーと、準社員のえりさんと、晴美さんと僕だった。
地獄を予感させるようなメンツだった。
まったく、である。
11時に開店する。とにかく12時からの2時間のラッシュを頑張ろうと思っていた。
ウォーミングアップに1時間、ラッシュの2時間、クールダウンに1時間、というプランだった。
ところが、全然ウォーミングアップではなかった。
開店と同時にお客様はやってきて、次第にテーブルが埋まっていった。
津波のようである。
神経を研ぎ澄ませて気を張っていた。
だけど、分からないことや、気づかないこともある。
晴美さんに、えりさんに、怒られることは1度や2度ではなかった。
波に飲まれないように必死だった。
気が付けば3時になっていて、ようやく波が引いたのを感じることが出来た。
デシャップだったけれど、全然デシャップの片付けなんて出来なかった。
キッチンのゴリさんがやってくれていたのでとても助かった。普段まったくよく分からないボケをかましてきて困っていたが頼りになるおじさんだった。
晴美さんが休憩に行った。
ラストオーダーも終わって、バッシングもすべて終わった。2組だけ残っている。
ゴリさんのおかげでデシャップの片付けはスムーズだった。
3時半頃には片付けが終わっていた。
45分頃にお客様が帰られ、バッシングをしてデシャップも片付けた。
文句なしの終わり方だった。
「4時になったら上がって」とえりさんが言ってくれた。
頑張った、と思う。頑張った。この頑張りが、のちの幸運をもたらしますようにと願った。
時間になり、退勤を押して控え室に向かった。
終わった。終わった。終わった。一服する。
控え室にはマネージャーと晴美さんとキッチンのムサシさんとめぐみさんが居た。
煙草を吸ってから、挨拶をして出て行った。
食べ終わったお皿があったので「持っていきますね」と言ってみたりもした。
マネージャーが「ありがとう」と言い、晴美さんも「ありがと」と言ってくれた。
1階に降り、お皿を下げ場に持っていき、えりさんとチーフに挨拶をしてお店を出た。
出勤前は曇り空だった天気は回復していて、空に晴れ間が見えていた。青い。
気持ちを落ち着けながら、コンビニに向かう。
昨日は、笹原さんは休みだった。今日は居てほしいと願った。
コンビニに、着く。
駐車場には4台の車が止まっていた。空いている場所に、止めた。
カバンに入れてある「手紙」を確認する。すぐに取り出せるようにして、カバンを持った。
今日は、特に時間稼ぎをせずに店内に入った。
入った瞬間に分かるから不思議だ。居る。居てくれている。
見た感じ他のお客さんの姿も見えない。混んでいない。一人だけ男性のお客さんが居た。
僕は真っ直ぐにコールドショーケースに向かい缶コーヒーを手に取ってレジに向かった。
レジのホットスナックの中をいじっているのは笹原さんだった。レジには笹原さん一人で、今日はおばちゃんは商品整理をしていない。チャンスだ! と思った。
「すみません」と声を掛ける。本当は名前を呼びたかったが言えなかった。
笹原さんが顔を上げる。可愛い。
「146番、下さい」
「はい」
煙草を取ってくれ、レジに立つ。少し、心臓の周りが縮むような気がした。
何かを言ってくれたようだが、よく聞こえなかった。緊張しているのかもしれない。
会計はいつものことなので分かる。660円だ。
僕は財布から1万円札を出した。「大きくてすみません」と一言添えた。
「よろしいですか?」と聞かれたので、小銭入れを確認した。60円あったので、出した。
また、何かを言われたが全然耳に入っていなかったので「ひゃ!」という情けない声を出してしまった。
「こちらでよろしいですか?」とまた聞かれたようだった。「はい。大丈夫です」と答える。
お釣りが返ってくる。お札を丁寧に数えて渡してくれて、レシートと小銭はトレーに乗せられていた。
気持ちを落ち着けるようにゆっくりとお釣りをお財布の中に入れた。
そして、僕は言った。
「あの」
そこで言葉を区切って、笹原さんの顔を見る。視線を笹原さんからカバンの中に移し、用意していた手紙に触れる。「よかったら…」と言いながら封筒を取り出し、前に差し出す。
「読んでくれたら、嬉しいです」
と、言って、渡した。
笹原さんは、受け取ってくれた。
「ありがとうございます」と言って、笑ってくれた。
「お疲れさまです」と僕は頭を下げて、また顔を見た。「ありがとうございます」と言って、また笑ってくれた。
振り返らずにコンビニを出た。車に乗り込み、缶コーヒーを2口飲んだ。
なんだか、呼び止められて、手紙を返されてしまったらイヤだったのでそそくさと車のエンジンをかけて発進した。
やった! 渡せた!
ついにこの時が来た。やったのだ。
帰りの車の中では、ずっとずっと「お願いします」と言っていた。声に出して言っていた。
何度も何度も笹原さんの名前を呼んだ。
笹原さんにも、神様にも、おじいちゃんにも、ご先祖様にもお願いをした。
やることはやったのだ。パンツも買ったばかりの新しいのを履いてきた。
手紙もちゃんと書けたと思う。
考えられる限りのことはやった。
あとは祈ることしか出来ない。
空が暮れてゆく。
今日が終わりを告げようとしている。
ハンドルを握りながら、前を向いて、僕は、何度も何度も「お願いします」と言っていた。
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